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伊予市誌

1 明治初年の状況

 愛媛県の成立 
 一八六九(明治二)年一月、各藩においては藩籍を返還し、藩知事となった。この当時の庄屋は第34表のとおりであった。
 一八七一 (明治四)年一一月、郡中地方は宇和島県に属するようになり、翌一八七二(明治五)年六月には、宇和島県は出石山の旧称によって神山県と改称された。次いで一八七三(明治六)年二月には、石鉄県と合して愛媛県となった。その後一八七六(明治九)年八月には讃岐国と合併して、大愛媛県が成立した。
 維新後の大変革は各地にいろいろの問題を引き起こした。一八七一(明治四)年に起こった大洲騒動には郡中地方からも多数の農民が参加した。同年八月一六日この騒動が解散して帰ってきた郡中地方の人々は灘町で騒ぎを起こした(「歴史編近世」参照)。この暴動には中心人物、特に指揮者がいなかった。第119図はこの騒動の際に被害を受けた柱を示すものである。
 なお、この騒動のくわしいことについては『豊川渉日記抄』に記録されている。それによると、貸座敷(新地遊廓)は全滅し、灘町・湊町の医師某がかなりの損害を被っている。このとき乱暴に加かった農民は数十か村一円にわたったといい、その暴動は遊廓が社会を毒するものであり、医者は種痘を行うので憎んだためであるといっている。

 壬申御触状 
 明治維新には、これまでの諸制度について種々の変革が行われ、それらは人々の生活に大きく影響した。一八七二(明治五)年には、田畑永代売買の解禁、新紙幣の発行布告、戸長、副戸長の設置、壬申地券の交付布達、田租定免制の制定、壬申戸籍の実施等が行われた。
 伊予市鵜崎村の役所になっていた和田篤宅にある「壬申明治五年御触状願書帳」には、同年に布告された各示達内容が記されている。
 それには次のように書かれていた。

  地方祭についての示達、
  長寿者に対する措置、
  皇族の薨去に関する布告、
  商品の鑑札について、
  一般民家に対する瓦屋根設置の許可、
  壬申地券の事、
  棄児救済措置、
  オーストリア万国博覧会(注、ウィーンで開催)出品物に関する件、
  北海道開拓使兌換紙幣の発行を為替座三井組に申し付けた事、
  農工商の職業選択の自由、
  犯罪人に対する人相書、
  旅行出人の戸長への届出

これらについて二、三述べてみよう。

 わざわざ啓上致し候、ついては旅行出人御座候之儀に付き、別紙雛形之通り戸長方より御沙汰相成候間、左様御承知之上区々相洩らさざる様御認御差出成らるべく候。右の為、御意を得べくかくの如くに御座候以上
   郡役所にて
                           武知  清
   三月四日 八ツ半時
   旅行届御印鑑札之雛形
 一、等何区何村農
      何之某
     何之某妹、弐娘
            某名
   右之者、今般芸州宮嶋参詣仕度申出候ニ付此段御届申上候、就当者御印鑑御願申上候、
 二、支 月 日
   里長 組頭内壱人何某印
     戸長御中
   前書略、
   郷中居宅是れまで瓦屋根、差留め置かれ候処、以来勝手に差免され候事、
     未十月  民事寮
   従前の養老扶持当辛未十二月限り廃され更に壬申の歳より 祝寿八十八歳、百歳の者に左の通り下賜候事、
    金五両 八十八歳
    金拾両 百  歳
   辛未十月 太政官
  別紙の通り太政官より仰せ出され候処、既に十七日中卯の御祭式共相済み候え共、右に付、更に卯の日をトし八幡宮に於て神事執行相成候条、来る廿九日当日当管内殺生及寺院の梵鐘差留め候事、
    未十一月 大洲県庁

  郡役場の名を廃し郡中会所に相改め、従前の通り相心得戸籍調査をはじめ里長集会等に相用い候様致す可く候、右会所毎月十日、二十五日両日官員出張致し候、先般相達し候、米湊村里長宅へ出張ハ相解り候に付、此者相心得可き者也、
   壬申五月十一日  宇和嶋県
               大洲出張所

 地租改正 
 本市内の旧家に数多くの地券がある。これには田・畑・山林の所有面積、地主、地価と租立が明記してあり、右上に「明治九年改」の朱印がある。交付年月日は、田畑は一八八〇(明治一三)年一月三一日、山林は一八八二(明治一五)年一一月一三日である。
 この券状は、大日本帝国政府発行の地券である。すなわち、地租改正を行い、愛媛県から伊予郡長(檜垣伸および西川武久とある)の手を通して地主に交付されたものである。
 地租改正は、明治政府が財政の安定をはかるため、特に歳入の基礎となる地租を確保するために行ったもので、一八七三(明治六)年から改正に乗り出し、一八八一(明治一四)年まで八か年の歳月を要して完成したものである。愛媛県では、一八七五(明治八)年権令岩村高俊の達書によって地租改正に着手し、これらすべての業務が完了したのは一八八一(明治一四)年六月であった。
 この地券を見て特に気の付くことは、地租が従来の現物納から金納に変わったことと、始め租率が百分の三であったものが、一八七七(明治一〇)年からは百分の二・五に引き下げられたことである。なお、『郡中町郷土誌』には、「明治一〇年両町ともに沽券(注売り渡しの証文)の交付あり、明治九年地租改正ありて地券と交換せらる」と記されている。
 地租改正によって、県下の各郡部では凡そ地租が軽減された。例えば、伊予郡では旧租額七万八、四八一円が改祖額六万三、二三三円となり、一万五、二四八円の減額となった(愛媛県史概説による)。そして、この改正は地主にとっては有利な面もあったが、小作人には従来と何らかわりはなく、また中小自作農の中には地租が金納になったために、かえって経営上困難を生ずることも少なくなかった。

第34表 庄屋一覧表(明治2年)

第34表 庄屋一覧表(明治2年)


第35表 地租改正事務着手・竣業時日一覧表

第35表 地租改正事務着手・竣業時日一覧表