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伊予市誌

3 ロシア兵捕虜と彩浜館

 日露戦争によるロシア兵捕虜収容所が松山に設置されたのは、一九〇四(明治三七)年二月二七日であった。そして翌三月には最初の捕虜が来松した。
 やがて松山近郊の土地にも慣れた捕虜将校たちを招待しようとして、収容所に申し込んだのが、郡中町長豊川渉と町の有志たちであった。
 このことについては、『松山収容所-才神時雄著』に載せられているので、同書によって見ることにする。来松した捕虜将校の中にタゲーエフという者がいた。彼は文豪トルストイの門下生であり、当時軍事通信員として派遣されていた。また、予備役の騎馬少尉でもあった。文筆に巧みであった彼は、松山での生活を記しているがその中の紀行文『郡中行』によって彩浜館に遊んだことを述べている。
 「九月二五日(一九〇四年)、この日は、よく晴れた好天気で、息苦しいほどではないがかなりの暑さで、トルキスタンの夏を思い出すほどであった」に始まっている。
 この日、伊予鉄道は、郡中線の列車に一等車を二両増結した。一二時三〇分松山駅を発車。車窓から、沿線のさとうきびを手折ったほど(当時、黒田から新川にかけてさとうきび畑が多かった)、速度はゆるやかであった。
 三〇分ほどして郡中駅に着いた。町長や町の有志たちに迎えられ、休憩所にあてられた五色が浜の彩浜館へ案内されて、「私たちは、日本の習慣にならってはき物を脱いであがった」。
 二階の休憩室の中央にそなえられた大机には、りんご、ぶどうを山と盛った籠が飾られ、「そこには華美な衣装を着た女性が笑顔を作りながら、茶菓をすすめてくれた。……彼女の名を、梅子嬢と知った。女性を花の名で呼ぶ日本の習慣は、実に適切である。人生の彩飾となり、この両者の似ている所は、まことに面白いと思われた」。
 階下の間には、絵画の軸物をかけ、その奥には壇を設けて生花と産物をそなえていた。「私たちにこの地の産業を紹介しようとするその発起人の考慮は極めて適切であって、その心情は尊ぶべきである。その土地の産物を見ると、その民情を察し得るからである」。
 産物は、彫刻・織物・ろうとその木の枝、瓶に入れた干しえび・海草・醤油・酢・細石・貝殻・干したかになどであった。「有志の人々は親切にも、出品物を少しく私たちに贈ってくれ、記念にと全員が細竹のステッキを一本ずついただいた」。
 庭に出て弓術を参観し(当時彩浜館の南に面した大広場に弓術射的場があった)、五色が浜を散歩して彩浜館にひき返し、供応を受けて帰路についた。途中、いわしの網引きをみて車中の人となった。
 草の葉は、そよともしない伊予の夕凪どきであった。(松山収容所六六ページ~六七ページ)。