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伊予市誌

4 郡中港衢創業碑の建立

 彩浜館の西側に「郡中巷衢創業の碑」が建てられている。碑とは、我が郡中開市創業二五〇年を期して、創業者の苦心と長年月に渉って町の発展に尽くした人々の努力と、その陰徳を表頌し、先人の栄誉を賛え、更にこれを裔孫に伝えんがために石刻したものである。
 すなわち、一六三五(寛永一二)年、大洲領(替地)となった当地は、その翌一六三六(寛永一三)年、上灘村より九右衛門、清兵衛(宮内氏の祖)の両人が居を此処に移して〝郡中巷衢〟の礎を築いた。
 こうして松林がうち続き、人跡稀な土地もやがて人も増え、町並みも整い、しだいに発展の途を辿った。
 爾来、二百数十年の歳月は流れて明治期に入った。そして、一八八五(明治一八)年は創業二五〇年目に当たっていた。
 なお、碑建立の趣旨と経緯は左の通りである。
 一八九三(明治二六)年七月某日、郡中町創業碑建立の発企人豊川渉は町内各戸へ、次の「建碑趣意書」を配布した。

  抑伊予郡郡中町之創始タルヤ寛永十三年ニシテ、当時ハ寂莫タル松林ニシテ人家素ヨリ稀ナリシニ、宮内氏の祖先大イニみ(しめすへんに見)ル処アリ。旧大洲藩ニ請テ爰二居ヲ移シタルニ起因ス。然リ而シテ去ル明治十八年ハ創業以来二百五十年ニ相当セルヲ以テ、其ノ起原ヲ後世ニ伝へ、併セテ創業者ノ名誉卜其ノ陰徳ヲ表頌センガ為、一大碑石ヲ建設セン事ヲ発企シ、左ノ諸君二謀リテ速二賛成ヲ得、既二表面ハ故伊達春山公卜故武知五友翁ニ請ヒ、春山公ハ〈郡中巷衢創業原誌明治二十年在丁亥従三位伊達宗紀書時年九十有八〉ト揮亳セラレ、武知翁ノ撰文モ亦成レリ。云々、

 宮内氏の祖先とは、宮内九右衛門・清兵衛兄弟、建立の発案者は前述の豊川渉、賛成者は、宮内小三郎・宮内直吉・宮内弥三郎・宮内六郎右衛門・宮内本三郎の各氏である。周施人は桑野秀八・黒田弥平次・安井熊吉・仲田菊次郎、裏面文字は松山の人河東坤(清渓)、石工・今岡豊蔵の各氏であった。ほかに郡中銀行頭取宮内治三郎氏の尽力も大きかった。
 石材は興居島石(天然花崗岩)、費用は三〇四円五銭四厘、義損金は郡中町民及び郡中銀行の寄付によるもので、町民の協力と愛町心発露の賜物であった。
 なお、竣工式は、一八九四(明治二七)年七月二二日、港南住吉社頭及び彩浜館で盛大に行われた。
 碑の裏面には、左の文が石刻されている。(図表 郡中巷衢創業原誌) 
碑は郷土の歴史、郡中の成り立ちを知る貴重な文化的遺産である。


郡中巷衢創業原誌 1

郡中巷衢創業原誌 1


郡中巷衢創業原誌 2

郡中巷衢創業原誌 2