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伊予市誌

3 三島陶器

 陶磁器業 
 三島は藩政時代新谷領で、大洲藩主加藤泰興の実弟加藤正泰の領地として、一六四三(寛永二〇)年分知され、それ以来これに属した。三島に陶磁器が作り始められたのは天明寛政のころで、砥部でぼつぼつ窯が起こり始めて、ようやく盛大になろうとしたときである。すなわち、市場村庄屋佐伯与三右衛門が藩主の命を受けて、門田金治というものから業を受け、稲荷山から出る陶土と三秋から出る釉薬石をもって始めたのが、そもそもの起こりである。
 後、一八二〇(文政三)年にその窯を金岡音右衛門が譲り受け、代々金岡家がこれを経営してきた。その後、稲荷山の原料はとれなくなり、砥部からこれを移入して使用した。
 一八七九(明治一二)年ころから次々と陶磁器製造所が設けられた。一九〇二(明治三五)年の「愛媛県農工商統計年報」によると、当時の伊予市における陶磁器製造所は次のとおりである。

  <工場名>     <製品>  <工場主>  <創業年月>  
  金岡陶磁器製造所  陶磁器   金岡亀十郎  寛政 元年三月  
  高橋陶磁器製造所  陶磁器   高橋兼五郎  明治一二年二月
  玉本陶磁器製造所  陶 器   玉本朝太郎  明治二八年六月

 一九〇三(明治三六)年の統計年表によると、次の二工場が設置されている。

  浜松陶磁器製造所 浜松環  明治三二年八月
  山崎陶器製造所  山崎佐吉 明治三六年一月

 更に、一九〇六(明治三九)年には、近藤陶器製造所(近藤龍太郎明治三九年一〇月)が設置され、一九一〇(明治四三)年一一月に砥部・原町・三島の業者三〇戸によって、伊予陶磁器同業組合を設立し、副組合長に高橋兼五郎が選ばれた。
 一九一二(大正元)年一一月、三島の窯業家は従来手足を使って細工台を運転させ陶器製造をしていたが、これでは経費や時間が不経済であると見て、これに代わって電気応用の機械ろくろを使用しようとして、五〇〇円余を出して一〇台を注文し備えつけることになった。また、三島に設立準備中の陶土会社も粉砕機を一二月に据え付け、伊予水力電気会社から三〇馬力の供給を受けて運転を始めた。

 三島陶器の盛衰 
 三島陶器は粗野な雑器であったが、堅ろうで安価で、実用品として地方の家庭には欠くことのできないものであった。明治時代に入ってからは茶碗・皿・湯のみ・鉢・徳利・杯・大鉢・花筒・神供徳利(みきとくり)・油皿など神仏具に至るまでできないものはなかった。酒屋の一升徳利には、各店の名前や酒銘も書いて焼かせたりもした。
 藩政時代には大洲藩の瀬戸物役所、新谷藩の唐津役所が郡中町にできて、砥部や三島の製品はそこで監督をしていた。その販売も問屋を指定して作らせ、運上金を納めさせていたようである。郡中には門田屋という問屋が一番の大問屋であった。
 一八九四~一八九五(明治二七~二八)年の日清戦争前後には、いずれも相当繁盛をして陶器工場も増した。販売は明治末年から拡大せられて、大阪、北陸、中国地方にも出されていた。松前の港から多くの船が出され、松前の行商人が陶器販売に大きい力となって、全国各地へ売られていた。
 更に、神戸の貿易商で内子出身の池田貫兵衛を通じて、満州・朝鮮・上海・印度・シャム(現在のタイ)方面まで輸出されていた。
 一九一〇(明治四三)年度の生産高三二三万個、価格四万七、〇〇〇円、内輸出高二〇〇万個、価格三万円と記録されている。
 第一次大戦中は、日本は物資補給の兵たん基地として栄えた。三島陶器もその例外ではなく、明治末年の一〇倍を超す生産をあげ好況にわいた。
 金岡・高橋・浜松・玉本・近藤・小崎等の窯場では陶煙の消えることがなく、いくら焼いても間に合わなかった。原料の赤松丸太は佐礼谷・中山方面から、石粉を積んだ荷馬車が大平街道から三島の町にはいってくると、せまい町並みは他の通行に困まるほど、荷馬車で町いっぱいになった。
 砥部焼は三島陶器の先輩であり先生であったが、この当時は三島の経営者に人を得て、これをリードする勢いであった。郡中町には砥部との協同の「伊予陶器工業協同組合」を設けてその道の発展に尽くしていた。港は千石船でにぎわい、金井・坂井・兵頭・三原・阿部などが砥部・三島の卸問屋として栄えていた。
 一九一八(大正七)年世界大戦が終わると、我が国は大戦の反動で不況の時代を迎え、三島陶器もその例外ではなかった。更に一九一九~二〇(大正八~九)年の中国大陸における排日運動のあふりをくって輸出は止まり経営に困難を来した。
 これより前、大正時代の初期、池田貫兵衛は金岡亀十郎の相談に応じて、輸出品を生産する目的で郡中港近くに伊予陶器株式会社と称し、諸設備に多くの機械を取り入れて、大規模な近代工場に大煙突を建て、池貫工場の名で親しまれた。この工場は三島陶器が倒れて後も長く操業していた。
 三島の町は地形が丘陵地帯になっている。これを利用して登りがまを作った。製陶業は多く山間に栄えていた。これは陶器の原料である陶土が近くから得られることにも関連があった。三島は町並みをしていて傾斜地であるから、陶業地として最適の条件を備えていた。ただ陶土と燃料である松材は少し遠いが、中山街道から荷馬車で搬入することができた。また製品の輸送も松山市、松前港・郡中港などを利用し得る便があった。このように好条件が揃っていながらどうして衰亡していったのであろうか。砥部焼の今日の隆盛を見るにつけても、惜しまれてならない。
 その衰亡の原因を考えてみると、その当時の交通事情から原料が近くになかったことが大きな原因ではなかろうか。原料は最初用いた唐川の砥石くずが適当でなく、これに代わって稲荷山の陶土を使用していたが、やがて砥部の豊富な陶土を利用させてもらった。後年は川登、安別当、鵜崎を利用するようになった。安別当の陶土は、金岡亀十郎の発見で、三島陶器の主力陶土であった。
 技術的な面についても、金岡窯を中心に名古屋、三重方面から陶土を招いて研究した。特に金岡亀十郎はその改善に心血をそそぎ、砥部焼に劣らない優秀品を作っているが量産ができなかった。このようなことから、不況の波に押されて三島陶器も、ついに終えんを告げなければならなかった(近藤英雄著『陶磁器と風物語』)。