データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

5 絣織物業

 絣織物業 
 古くから自家用に供するために縞木綿などを織っていたが、一八八七(明治二〇)年ころから副業的に伊予絣を織り出すようになって、だんだん盛大さを加え他地方へも移出するようになった。
 伊予絣の発展はこれを左の四つの期に分けられる。
 伊予縞時代―第一期勃興期(明治二〇~三九年)、第二期反動期(明治四〇~大正四年)、第三期全盛期(大正五~一〇年)、第四期老衰期(大正一一~昭和一五年)
 大正時代後期から伊予絣の生産が年々減少していった原因と思われるものは、学童や男女青少年の服装の変化である。昭和の初めころから児童・生徒の着るものが制服化した。農村や漁村の作業衣も洋服化し、若い男女の切る物が次第にはでになって絣木綿を着なくなってきたためである。しかし、最近は伊予絣の良さが見直されて第五期復興期を迎えている。
 伊予絣の製織は織元から農家・町家の婦女子の織子へ絣糸の材料を届けて織らせるのである。織元は白木綿糸を釜で煮て漂白し、この糸に白く残す部分は油紙か糸などでかたく絞り、次に藍つぼに入れて染める。染まると水洗いをし、糊づけして乾かす。絞りをといて再び水洗い、糊づけをし乾かす。そして糸をわくに巻き取って元ごしらえをする。こうしてできたものを織子に織らせるのである。一九二四(大正一三)年ころから足踏織機が使用されるようになり、普通の織子でも一日二反を織るようになったが、織賃は低下を招くことになった。一九三五(昭和一〇)年ころから動力織機が使用されたが、生産高は減少していき、市内の絣業者も次第に姿を消していった。
 一九〇一(明治三四)年から一〇年間における北山崎村の絣織物の生産額は第41表のとおりである。
 一九〇九(明治四二)年における郡中町の生産高は一〇万反で価格にして一二万一、〇〇〇円であり、南山崎村では一、七七〇反で一、九四七円の生産であった。郡中町の生産高が多いのは織元や絣製造者が四〇近くあって、大平・唐川・上・下三谷・稲荷・三秋、遠くは上灘・下灘、佐礼谷・中山方面まで出かけて行って賃織りをさせていたからである。
 これらの絣は第130図の示すように伊豫絣株式会社において売りさばいていた。

第41表 絣織物の生産額

第41表 絣織物の生産額