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伊予市誌

6 郡中の陶磁器

 陶器会社 
 一九一三(大正二)年七月一日、神戸の池田貫兵衛の手で郡中港の近くに設立され、機械の運転を開始した。この工場を当時の人々は「池貫」と呼んだ。最初は、陶石を輪転破砕機にかけて石粉にし、硅石と混合してトロメルの中へ入れ、水を注入して一五時間回転すると泥水となる。これを圧さく器へ送り布でこして陶土を作るものであった。一日四〇〇貫の陶土を製して砥部や三島の陶器業者に供給した。一九一四(大正三)年六月、砥部・三島の陶器が不況のため原料の需要が減少したので、自ら陶器製造をすることになった。一九一七(大正六)年には輸出向け陶器も買い占めて一か月三〇万個を輸出していた。一九二一(大正一〇)年、輸出向け陶器の価格が半額に低下したため、四月一日から三か月休業し、一〇〇人を解雇することになった。以後、不振を続けて昭和の初めに閉鎖した。現在太陽鉱工株式会社が工場跡を使用し、赤れんがの煙突が往時の面影を残している。