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伊予市誌

1 山腹の集落、鵜崎・両沢

 伊予市の集落は、伊予灘に面した行道山塊の山脚部から道後平野の低地に大きく形成されているが、山塊の背後の山腹にも集落が存在している。
 行道山塊の背後にそびえる障子山(八六五メートル)の中腹部(三〇〇-四〇〇メートル)に位置する鵜崎、更にその山脚部(二四〇-二六〇メートル)の両沢は上唐川と共に一八八九(明治二二)年旧一一月に伊予郡に編入され、南山崎村の大字であったが、近世にはおのおの一村を形成した。
 両集落とも昔から生活を維持する主業は農耕で、これに山間集落としていわゆる山かせぎが盛んに行われていた。
 耕地は山のふもとから谷筋に沿ってはい上がった階段状の水田と、集落背後の斜面を耕地化した畑地とである。水田は地形的制約から著しく細分化され、しかも曲線区画で自然条件及び排水も悪く、労働に対する生産性は極めて低かったので、両集落とも「下の下」以下で過半数を占めていたことは第42表のとおりである。しかし両集落の戸数及び人口の推移を見ると明治時代にはいるにつれてだんだん増加を示している。
 このことは、地域の住民が伝来の家業を守り、更に生産を高める工夫や新しいものの導入などに加えて、近時、県道大平・砥部線が開通して、交通の便がよくなり物資の流通が容易になったことなどに起因している。
 鵜崎の米は良質で酒米にもなり、梨も良質のものを生産し声価を高めていた。また、みかん・梅・しいたけなども栽培して、多角的に経営し安定した生活を営んでいた(注 鵜崎の和田家所蔵の資料によって、池内長良の研究したものによる)。

第42表 水田の石盛とその比率

第42表 水田の石盛とその比率