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伊予市誌

3 計画的に形成された在町

 一六三五(寛永一二)年、松山藩と大洲藩との替地後、計画的に郡中灘町はつくられた。
 「郡中巷衢創業原誌」によると、郡中の地は替地当時は松林が続いて居民も少なく、起伏の多い寂寞荒涼の地であった。松山・大洲からも遠くへだたり、山野・村里の物産も少なくなかった。なお、海に面しているので、船舶旅商に好都合であることに目をつけた上灘の人九右衛門・清兵衛兄弟が藩主に乞うて、当時藩の役宅のあった湊町の南部に私財を投じて町づくりを始め、年と共に人々が集まり、数年にして集落をなしたとある。
 町名も上灘の九右衛門がつくったので、灘町と呼称されるようになった。その後、岡文四郎など幾多の人々が港湾整備に力を注いだために、広く他地域との交流が行われるようになり、町は次第に栄えていった。
 三島町も、灘町より少しおくれて一六五〇~六〇年ころに新谷藩主のたいへんな力の入れようで、商売をするように町づくりをしてできた町であった。一七九七(寛政九)年ころに、米湊村・下吾川村は、灘町・湊町・三島町からの分離を藩主に願い出ていたが、一八〇八(文化五)年八月一〇日、これが許可されて分離することに決定した。
 一八三五(天保六)年ころにおける灘町と湊町の規模並びに戸口は次のようであった。
 灘町 町の長さ五四間三尺(九八・一メートル)、戸数二五七軒 本門四七軒・家子二一○軒、人口一、○一一人 男五一九人・女四九二人
 湊町 町の長さ二町二八間(二六六・四メートル)東西五二間(九三・六メートル)、漁師町 四町一四間三尺(四二二・一メートル)東西四〇間(七二メートル)、戸数二七六軒 本門一三四軒・家子一四二軒、人口一、一九九人 男六一三人・女五八六人
 一七一五(正徳五)年における灘町の『宗門御改帳』によると、戸数は一〇九戸、人口六三五人 男三三一人・女三〇四人となっている。これと先の天保年間における戸数・人口と比較して一二○年間に二倍近く増加し、更に一九五五(昭和三〇)年市制発足当時、灘町・湊町の人口三、八六七人、戸数八九六と比較すると天保年間から一二○年間に約一・七倍に達している。
 明治時代の地籍図をみると、藩政時代の町づくりの様相をうかがう事ができる。北東は湊町と小川を境に接し、北東から南西に道路が通じて庚申堂あたりで小川を境に終わっている。町は道路の東側に七三軒、北側は八八軒であった。そのほかに大通りの周辺にかけて三六五軒ばかりあった。これは一七一五(正徳五)年の本門三一軒に借屋七八軒合計一〇九軒と比べて年々発展してきた姿であった。近時道路の整備と汽車・電車・自動車などの交通機関の発達によって、県都松山市方面に買い物客が移動し、なお国道五六号線の改修や産業構造の変化などから、住宅が東南・東北方面に多くなってきて、灘町・湊町の戸数、人口共に徐々に減少しつつある現状である。