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伊予市誌

1 明治維新後の村々

 廃藩置県と区制の実施 
 一八七一(明治四)年七月一五日に大洲藩が廃されて大洲県となり、加藤泰秋は知事を辞職したので、大洲県の事務は大参事山本尚徳が取り扱った。
 一方、新谷藩知事加藤泰令の知事職も同年七月一四日にとかれ、大参事徳田儀一が新谷県の事務取扱いを命ぜられた。
 このとき、県内各地で旧藩主との惜別を理由に農民たちが動揺して松山・大洲では大騒動が起こり、大洲では暴動鎮圧のため大参事山本尚徳が自殺して責任をとるなどのことがあった。
 同年一一月一五日、大洲・新谷の両県を廃して宇和島県と合併することになった。大洲県権大参事口分田盛美、新谷県権大参事香渡晋はそれぞれ政務を新宇和島県に引きついだ。そのため支庁を大洲に置いた。
 翌一八七二(明治五)年四月、庄屋の制度を廃して地方行政区を改め、大小二区とし、大区に区長、小区に戸長を置いて、庄屋から引きつがせたが、この任には庄屋がほとんどついていた。
 同年六月二三日、太政官第一八六号布達により、宇和島県を神山県に改められた。行政区域としては宇和・喜多の全域と浮穴、伊予の二郡の一部を合わせて七〇町四四〇村あり、これを管轄した。
 また、官選戸長の任務は、収税、戸籍・徴兵下調べ・地券台帳の保管・就学勧誘の委任等の行政事務のほか町村の理事者として、地方税・協議費などの支弁を行う任務が明確にされた。
  一八七二(明治五)年における現在の伊予市に属する地域の区制並びに戸長・副戸長・戸数は左のとおりである(「愛媛県町村合併誌」の神山県区画並小区役員簿)。
 第一一大区(六、九七八戸)

  第一小区 栗田・玉谷・満穂・上唐川・萬年・外山・鵜崎・両沢・五本松・川登・大角蔵・七折・川毛・川井(計八五二戸・戸長武智清・副戸長影浦義幹・坪内庄太郎)
  第二小区 略
  第三小区 大平・下唐川・三秋・森・中村・尾崎・本郡・市場・稲荷・三島・灘町(一、四二五戸・戸長坂内豊明・副戸長豊川渉・伊藤徳隣・佐伯美法・宮内直吉)
  第四小区 上吾川・下吾川・米湊・黒田・湊町(計九八八戸・戸長豊川提・副戸長宮崎幽潜・宮内弥一郎・片岡利愈)
  第五小区 上三谷・下三谷・上野・宮下・八倉(計九二二戸・戸長富田豊尚・副戸長三好義正・玉井健次郎・田中休)

 この区制の実施で、伊予国二県は二九大区、二八七小区に編成せられ、行政区として町や村の名称は姿を消し、これらの末端行政単位は以後しばらく小区と呼称された。だいたい三〇〇戸をもって一小区と見立て、これに戸長及び副戸長を各一人置くことを原則とし、場合によっては一〇〇戸を単位として副戸長一人を増した。また大区と称するものは、のちに郡に移行するもので区長がその長となった。これらは初めころ公選であった。一八七八(明治一一)年大・小区制が廃止され、町村名が復活したとき、戸長の名称は残って公選制が継続した。一八八四(明治一七)年七月、これらの戸長は知事の選任となって一八八九(明治二二)年の市制・町村制実施のときまで続いた。
 一八七二(明治五)年二月九日松山県を石鉄県に、同年六月二三日宇和島県を神山県に改称したが、一八七三(明治六)年二月二〇日両県を合併して愛媛県が誕生し、県庁所在地は松山に定まった。次の表は愛媛県の沿革である。
 一八七二(明治五)年に大小区制をしき、次の表で見るように一八七三(明治六)年二月二〇日伊予の国一円が一県に整理統合された。
 新政府はこのとき旧石鉄県の役員全部を自然免官とし、新たに前の神山県参事江木康直を新生の愛媛県参事に任命して長官にすえ、そのほかの役人はほとんど旧神山県官吏を横すべりさせた。江木康直は一八七四(明治七)年一二月、現職のまま松山で病没するまで在任わずかに二か年であったが、初期県政に尽力した。
 一八七四(明治七)年五月二〇日に県布達乾第五三号をもって愛媛県においては大・小区制が改正された。
 これによると第八大区の会所を郡中村に置き、管内区域は浮穴・伊予郡の大部と喜多郡の一部であった。これには区長一人、副区長一人を置いて地方行政の長とし、給与は区長が一季三か月三六円、副区長は一季三か月三〇円であった。小区には戸長一人を置き、副戸長を廃して組頭を置いた。給与は戸長は一季三か月二一円、組頭は一五円としたが、それ以下のものについては、土地の形状、事務の繁劇によって定員では差し支えがある区に限って、その町内協議の上県庁の許可を得て増員するのはさまたげはないと指示した。
 これと同時に県は戸長心得を布達している。これによると、第一項に小区取扱所はなるべく戸長あるいは組頭の私宅でこれを設けるようにとしているから、町村役場の特設はなかったようである。
 このころの県の禁令規則には、一八七三(明治六)年四月、遍路乞食に施しは禁止する、同年八月一日、僧侶は髪をのばすことを禁止する、同日元石鉄県布告類一切を廃止する、同月四日、男女混浴を禁止する(銭湯)、同月二九日、旧盆踊りを禁止する、一八七四(明治七)年六月一〇日雛人形旗幟をやめることを告諭し、同年九月一五日、祭礼のとき悪習のあるものは禁止するなどがあった。

 県行政の刷新
 一八七四(明治七)年一一月、岩村高俊が愛媛県権令として赴任し、同年一一月五月県令に昇任して任期五か年半に及んだ。岩村県令は創意によって県会仮規則を設けて、特設県会を開いて県政の樹立を図り、一八七五(明治八)年には学事告諭を発して、「人々その好める所の貴く賢からんと欲せば、子弟をして人民普通の学問たる小学の課業を出精せしめざるべからず」と告諭するなど、その功績は大きかった。

 香川県の併合と区編成の改正
 一八七六(明治九)年八月二一日政府が府県の統廃合を断行の際、香川県が廃され讃岐一円が愛媛県となり、同年九月管区の編成替えが三度行われ、大・小区の呼称が東端から順序づけられ、第45表のように改められた。

県の整理統合

県の整理統合


第45表 1876(明治9)年愛媛県伊予国内区画表

第45表 1876(明治9)年愛媛県伊予国内区画表