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伊予市誌

6 鵜崎部落の境界変更

 鵜崎部落の分離を必要とした事由
 この地域は、伊予市の東南端に位置し、砥部町に境を接する山間地域で、伊予市役所から一四キロメートル離れ、大平支所からは八・五キロメートルを隔てているが、砥部町役場・農協などの所在地までは四キロメートル余りであって学校などの教育施設にも近く、日常生活及び通学なども便利であった。それで児童及び生徒の一部は砥部町の小・中学校に通学し、また農協関係においても砥部町農協に加入していた。

 鵜崎部落分離に関する沿革
 鵜崎部落は地理的条件や諸施設利用度の面、その他環境等において古来砥部町への合併を希望していたが、一九二七(昭和二)年に旧村学校統一問題が起こったのを契機として、その機運が高まり以来しばしば関係当局へその実現方の陳情をくり返して来たが、たまたま一九五三(昭和二八)年九月「合併促進法」が施行せられると、これを好機としていよいよその運動を活発化し、旧南山崎村、旧伊予地方事務所、県当局などに折衝するとともに、昭和二九年九月には伊予市旧四ヶ町村合併促進委員会へ代表者を送って事情を具申し、越えて一九五五(昭和三〇)年三月には市当局並びに同議会に対し、同地区住民連署による陳情書を提出してこの運動を続けた。陳情書は次のとおりであった。

     陳 情 書
   当伊豫市鵜崎(旧南山崎村大字鵜崎)は、本市の東南端に位置し、砥部町に境を接する地盤標高五〇〇メートルの地点にして、戸数三三戸、人口一八〇人にして耕地二五町歩、山林一八八町歩を有する小部落であります。
  古来砥部十六谷の内にして、砥部町大字大南大宮八幡神社の氏子であり、地理的関係及び風習共に砥部町に密接なる関係を有しておりましたが、明治二二年町村制の施行と共に旧南山崎村に属する事となり現在に至りました。素より辺ぴの地域であり旧村役場、農協、中学校まで約一〇キロメートルあり子弟の教育については特にその苦痛を感じつつありましたが、不幸昭和二年旧村の学校統一問題に因を発し以来部落民の大半は砥部町へ寄留をなし、行政・経済・教育共に砥部町とのつながりを一層深くすることとなりました。
   現在部落経済状態を見るに、昭和初年部落は二つに分かれ砥部町寄留組と残留組とになり、それ以来部落民の心情等も何となく活気に乏しく、いたずらに日月の流れるを如何ともなし得ず、そのため部落は極度に疲弊の一途をたどり、耕地山林共に漸次他町村或いは他部落民の所有になりつつあり、その収益もまた前者に比例し今後も現在のまま進みますれば部落の経済は崩壊必至となります。
   我々代表者といたしましても、何んとかしてこれが解決策に日夜苦心し各方面にわたり再三陳情等を致しましたが、未だ解決を見るに至らず今日に及んでいる次第であります。
   ところが幸いにして一昨年九月、町村合併促進法が実施せられ、本年一月一日より伊豫市は発足し、さらに砥部町、原町村は合併三月三一日発足する事となりました。
   此の機会に是非共、当鵜崎全地域を分離、砥部町へ合併していただきたく格別の御高配を賜わりますよう重ねて陳情いたします。
    昭和三〇年三月一〇日
         部落民代表者
                         渡 部 義 光
                         渡 部 綱 市
                         中 村 直 成
   伊豫市長 城 戸 豊 吉 殿

 市議会においても鵜崎部落の砥部編入は絶対反対で市制施行以来この方針を貫いており、平岡部落の編入の問題も合わせ「境界変更特別委員協議会」を設け調査研究を進めてきたが、昭和三三年三月議会協議会において、伊予市の水源地である鵜崎を分離することはできない旨の決定が行われた。
 また、市当局は前記陳情代表者に対し次のような回答書を送った。
  伊総発第二〇一号
    昭和三三年八月一一日
                    伊豫市長 城 戸 豊 吉
   鵜崎地区部落代表
    渡 部 義 光
    渡 部 綱 市 殿
    中 村 直 成
     鵜崎地域の境界線のことについて
   鵜崎部落全域が本市から分離して砥部町に合併したい旨を連署して昭和三〇年頭初に陳情請願のありましたことについて次のように回報します。
         記
   本市においては市制施行以来市議会と一体となって鵜崎全地域の境界線のことについて、鋭意調査研究を重ねてきたのでありますが、鵜崎全地域が砥部町へ分離合併することは政治、経済、住民福祉の見地から好ましくない結果を招来するものであるので、本市としては貴請願の趣旨にそい難く伊豫市から分離して砥部町に合併することは認めないことになった。

 一方、鵜崎部落でも分離賛成組と分離反対組(伊予市残留組)との二派に分かれ、県に対して陳情を行っていた。結局地元部落並びに伊予市においても県当局の裁定に委すことになり、県が明示した境界線は、本谷と中谷の間の分水嶺を境として一線を画することになった。
 そして一九五八(昭和三三)年九月議会において次のような議決を行った。
  議案第六三号
     市の境界変更について
   伊豫市鵜崎字梅ノ木谷甲一番地から甲五九番地まで、同甲四〇四番地から甲四〇八番地まで、同乙一番地から乙三九番地まで、同乙一八六番地から乙一八七番地の三まで、字タル甲六〇番地の一から甲七七番地まで、字堀田向甲七八番地から甲一〇二番地まで、同乙四〇番地から乙五四番地まで、同乙七〇番地から乙七六番地まで、同乙七八番地から乙九〇番地まで、同乙一八八番地の一から乙一八八番地の八まで、字中谷甲一〇三番地の一から甲一一八番地まで、同甲一二〇番地から甲一八四番地まで、同四〇九番地から甲四一七番地まで、同甲四三九番地、字丸山乙九一番地から乙一一六番地まで、字流れ谷乙一八四番地の一及び同乙一八四番地の五四から乙一八四番地の五七までの区域を砥部町に編入し、昭和三三年一一月一日から施行することを愛媛県知事に申請するものとする。
    昭和三三年九月三〇日提出
                  伊豫市長 城 戸 豊 吉

 これと同時に前記区域を砥部町に編入する場合において伊予市の同区域に所在する一切の財産(権利義務)は砥部町に編入すると同時に同町に帰属させる旨の議決をも行った。