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伊予市誌

1 生活保護

 生活困窮者の救済制度は、遠く大宝律令(七〇一年)に定められたことに始まる。その後、徳川時代になると将軍綱吉によって、江戸の窮民救済のための措置が制度化されたという。一八七四(明治七)年に救恤規則が制定され、一九二九(昭和四)年には救護法が制定された。この救護法はその内容が制限的な救護措置に終わっていたため、その後、現実の要請をこの法律だけによって処理されることが困難となったので、母子保健法(一九三七・昭和一二年)、軍事扶助法(一九三七・昭和一二年)、医療保護法(一九四一・昭和一六年)などに立法化された。一九四五(昭和二〇)年一二月には生活困窮者緊急生活援護要綱が閣議で決定され、生活困窮者の当面の救済としての生活援護が翌年四月から実施に移された。
 政府は生活保護法案を第九〇回帝国議会の協賛を得て、一九四六(昭和二一)年九月法律第一七号として公布し、一〇月から実施されることになった。
 その後、一九五〇(昭和二五)年に憲法第二五条に基づいて、国民に対する公的扶助としての理念を明確化するために、実施体制の確立、保護基準の合理化、指定医療機関の創設、保護請求権の無差別平等保障、不服申立制度の確立などについて、全面的に改められ生活保護法として公布施行されたのが現行法である。
 保護基準についても、国民が健康で文化的な最低生活を満たすことができるようにという趣旨のもとに、既に五八回にわたって改正が行われ今日に至っている。
 伊予市における最近一〇年間の生活保護の動向は第55表のとおりである。

 福祉事務所
 一九五一(昭和二六)年六月、福祉事務所制度の発足に伴い、保護の実施機関は県知事・市長・福祉事務所を設置する町村の長に改められ、福祉事務所長を第一線機関とする実施体制に改められた。
 一九五五(昭和三〇)年、旧郡中町と南山崎村・北山崎村・南伊予村の三か村が合併して市制がしかれ、社会福祉事業法第一三条(現行・社会福祉法第一四粂)の定めるところによって、市福祉事務所を設置した。そして市内の福祉に関する一切の事務をつかさどることになった。
 福祉事務所の業務は、生活保護法・児童福祉法・母子及び寡婦福祉法・老人福祉法・身体障害者福祉法・知的障害者福祉法などに定める措置を行い、地域社会の社会福祉に関するサービスセンターとして援護・育成又は更生の措置を要する者に対し、その独立心を損なうことなく社会人として自立できるよう援助することを目的としている。
 市福祉事務所は昭和三〇年合併当時の伊予地方事務所民生課からこれらの事務を引き継いで業務を始めた。事務所の人員構成としては、所長のほかに査察指導員、現業を行う所員、事務を行う所員などが配置された。

 宿所提供施設厚生寮
 宿所提供施設(厚生寮)は、利用者に対して健全な環境のもとで、日常生活上の諸問題について相談に応じるなど、より一層の生活向上を図るための生活保護法に基づく施設である。
 太平洋戦争が終わって、海外から引き揚げが開始された。しかし、郷土に帰って来ても山河は昔のままにあったが、住む家のない人が多かった。それで国・県は引揚者応急住宅の建設を急いだ。当時の郡中町長岡部仁左衛門は一九四六(昭和二一)年、下吾川浜田に敷地九三三・九平方メートルを伊予鉄道株式会社から借り受け、県知事の設立許可を受けて直ちに着手した。同年一〇月、木造杉皮葺平屋建て三棟が落成し、翌一一月一日から入居が開始された。
 当時の郡中町役場では社会係に、社会福祉事業に熱意のある有能な職員を配して、不遇な人々のために一日も早く更生するよう適切な指導をした。一九五五(昭和三〇)年一月、伊予市制の発足とともにこれらの施設や業務は市に移管され一九八〇(昭和五五)年まで存続されたが、入所者の減少、老朽化のため廃止となった。

第55表 伊予市の生活保護の動向

第55表 伊予市の生活保護の動向