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伊予市誌

2 保健所の設置

 保健所設置までの衛生行政
 一八九三(明治二六)年以降は衛生に関しては、警察署で伝染病予防、公衆衛生に関する申請許可や、その取り締まり、衛生施設の整備などについて指導監督をしてきた。
 伊予警察署の沿革誌の記録の中に、伝染病の流行とその対策についてくわしく記している。これによって公衆衛生に対する関心がうすいこと、衛生施設が整ってなかったことが十分理解される。

 保健所の設置
 昭和時代の初期、ことに一九三一(昭和六)年満州事変以来急速に国民体力の向上、出生率の増加、乳児死亡率の低下などが要請される一方、結核の予防がようやく重要視されるようになり、そのため医師など専門の技術者を中心とする指導機関の設置が必要とされ、単なる衛生警察としての取り締まりだけではその目的を果たせないことになった。
 一九三七(昭和一二)年四月、保健所法が制定施行され、初めて保健所が全国四九か所に設置され、年々増設されていくことになった。その事業の重点は衛生思想の普及、結核の予防、母子の保護、栄養の改善におかれ、やがて自ら行うこれらの実務だけでなく、その担当地区の保護指導業務を推進し、その調整をはかる中心となった。こうして衛生行政の仕事は警察署からはなれて保健所で積極的に進められた。

 伊予保健所
 一九四四(昭和一九)年一〇月に郡中保健所が発足し、伊予郡一四か町村を所管した。一九四七(昭和二二)年に保健所法は全面的に改正され、従来の指導業務が拡充されるとともに、衛生行政事務が加えられ、結核・性病・歯牙疾患には予防上必要な治療も行われるようになった。
 また、一九五一(昭和二六)年一月には行政事務の一部が委任されるなど各種の整備が進められた。同年五月、郡中灘町海岸通りに新庁舎が落成した。
 同年五月一五日 愛媛県保健所処務規程が制定され、総務課と保健予防課の二課が設置された。
 一九五五(昭和三〇)年一月、伊予保健所と改称した。
 一九六〇(昭和三五)年四月、衛生課が新設されるとともに、伊予市米湊安広にある伊予財務事務所の廃止に伴い、同年一一月にこの建物を改造して伊予保健所をここに移転した。
 一九七九(昭和五四)年九月、愛媛県伊予庁舎新築完成に伴い伊予市米湊二六九番地に移転した。
 一九八一(昭和五六)年四月、愛媛県庁の機構改革によって、松山地方局伊予保健所と改称され、保健予防課と衛生課の二課制になった。
 一九九八(平成一〇)年四月、保健所機能縮小により、松山中央保健所伊予支所と改称され、保健係と担当係の二係制となった。
 二〇〇五(平成一七)年三月末をもって伊予支所は廃止され、松山中央保健所に統合される予定である。