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伊予市誌

1 水道

 郡中水道組合
 栄町・伸之町・桜町(旧郡中村米湊分)・灘町新地(旧郡中町)などの地区は地下水に塩分が強いため、各家庭の生活用水は主婦が毎日桜町の桜木井戸(通称殿様井戸)から運んでいた。そのために食事前などは井戸に列を作ったという。そして年に一度は利用者から資金を集めて井戸そうじを行っていた。
 この苦しい生活の中から一九二二(大正一一)年桜木井戸を水源に上水道施設の建設機運が生まれ、いろいろ相談を重ねた結果、給水区域である栄町・伸之町・桜町・灘町新地の四地区の希望世帯七〇戸で建設することになり、加入者の会員持株制によって建設資金を調達することになった。
 持株制度は一株一円(当時男子一人役の日当に相当する金額)で最高五〇株、最低三株程度を互いに持ち、建設資金約七五〇円程度で発足をした。工事着手は一九二二(大正一一)年一二月一五日で翌年九月一日に完工した。工事内容として、揚水ポンプ施設と貯水高架タンク(鉄製)の施設をした。配水管には鋳鉄管を五一〇メートルとガス管五六〇メートルを使用した。運営方式は共同栓方式で給水し、料金は一世帯を単位として月額で徴収していた。水道料金の算定は持株の一割を年配当金として還元するため、総出資金の一割と年間維持管理費合計を算出し、これを各組から選出された役員会で世帯の段階に応じて賦課徴収を行う制度になっていた。
 施設完工後約一年間は桜木井戸から取水したが、毎日多量に揚水するためこの井戸の水質が悪くなったので苦心の末、付近の自家用井戸を借用して水量を確保し、一九五三(昭和二八)年に至り郡中町簡易水道に合併するまでの約三〇年間お互いの手で運営をしてきた。
 この水道は伊予市における最初のものであり、地区住民の英断と地区先覚者の献身的な努力によって建設運営をされていた。その功績を伝えて「水道創設記念碑」が五色浜神社の西側に建立されている。

 伊予市上水道の揺藍時代
 森上山・本郡浜両地区簡易水道の建設。この簡易水道は上水道地盤変動復旧事業で建設され、当時の陳情書に次のようなことが書かれている。

   昭和二一年南海地震に伴う災害は未ぞうの地盤変動を招来し、その災害復旧工事は国庫助成により逐次その復旧効果を収めておりますが、沈下の必然の結果として最近に至り海岸線一帯の地下に異変を来たし、飲料用井戸に海水その他の不純物が侵入したり、井戸水が枯渇する等日常の飲用水に支障を来たしており……(中略)……これ等災害防止の方途を講ぜられるにおいては住民の保健衛生は保全を期し難く、寸時も看過し得ないものであります。(後略)
   (昭和二四年一二月二三日付、北山崎村長から衆参両院議長への陳情書)

 このような地域事情と請願・陳情活動によって県下第一号の簡易水道が一度に二つ誕生した。
 森上山簡易水道 一九五〇(昭和二五)年一月三一日に認可され、一九五一(昭和二六)年三月に工事が終わった。計画給水人口は二〇〇人、一日最大給水量は一二立方メートル、一日一人最大給水量は九〇リットルであった。
 水源と浄水方法としては、湿田に浅井戸を掘り、ろ過をして配水池に貯水し、自然流下で一三個の公共栓をつけて各家庭へ給水した(幹線配水管八〇一メートル)。給水使用料金は一世帯五人までは一か月一五〇円、一人増すごとに三〇円を徴収していた。
 本郡浜簡易水道 一九五〇(昭和二五)年一月に認可され、工事は一九五一(昭和二六)年三月に終わった。計画給水人口は二〇〇人、一日最大給水量は一二立方メートル、一日一人給水量九〇リットルであった。
 水源と浄水方法としては部落東端に浅井戸を掘って地下水を高架タンクに貯水し、自然流下で公共栓により各家庭に給水をした。配管の幹線六四五メートルであった。
 森上山・本郡浜両簡易水道事業費の総額は一四八万円で国庫補助として七四万円、残額七四万円は起債とした。
 郡中町簡易水道 一九四六(昭和二一)年の南海地震以来郡中町海岸地帯の地盤沈下に伴い、自家用井戸の塩分はひどく、町民の生活に打撃を与え、上水道施設のない湊町・灘町両地区の飲料水確保は緊急な問題となった。このために町行政の重要事業として関係者の精力的な努力により、上水道地盤変動復旧事業として認可を受け、昭和二五年度から四か年継続事業として発足した。なお、さきの郡中町水道組合は本簡易水道に合併した。
 尾崎浜簡易水道 昭和二九年度上水道地盤変動対策事業で実施した。工事は一九五四(昭和二九)年一二月に完了し、地下水を直ちにポンプで揚水し、各家庭に給水した。