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伊予市誌

3 下水道

 (1) 下水道の概史

 し尿の農地還元
 我が国は古来農をもって基本とし、つい最近までし尿を有力な肥料として農地還元してきたことから便所の構造も汲み取り式であり、水路や河川がし尿によって汚濁される程度は比較的軽微であった。反面、このことが下水道施設の発達を遅らせる主な原因ともなった。
 しかし歴史を顧みると、下水道の概念の登場は弥生時代まで遡ることができ、稲作技術の渡来とともに大集落が形成され、防御的、用水、排水等を兼ねた水路が造られるようになり、また、古墳時代には掘立柱形式の建物の屋根から落ちる水を受ける溝が存在し、雨水排除に大きい役割を果たしていた。

 西欧の下水道
 ヨーロッパにおける近代的な下水道は、各都市で猛威を振るったコレラやペストの予防の切り札として都市を清潔にするため、汚水排除を目的として進められた。有名なものの一つに、一三七〇年から始まり順次築造され、一七四〇年ごろ完成し、フランスの文豪ビクトル・ユゴーの長編小説『レ・ミゼラブル(ああ無情』に登場するパリの環状大下水道がある。

 日本の下水道の黎明
 パリの下水道築造当時の我が国は、室町幕府第三代将軍足利義満の治世下にあった南北朝時代から戦国時代を経て、徳川吉宗が第八代将軍として君臨した江戸時代中期にあたる。わが国とヨーロッパとのし尿に対する評価・価値観の差が、下水道建設に大きな違いとなって表れるのは当然で、やはり近代的下水道の登場は明治に入ってからになる。
 それは、文明開化の名のもとに欧米に追いつくことを目標に近代化を図るため、東京市(当時)・横浜市・大阪市・仙台市などの大都市が下水道に着手した。中でも、一八八一(明治一四)年着工の横浜市のレンガ製大下水、一八八四(明治一七)年に着工の東京市の神田下水は汚水排除も含めた本格的なものであり、これらは我が国における近代下水道の先駆となるもので、一九〇〇(明治三三)年の旧下水道法制定に結びついた。
 しかし、大正から昭和の前半にあっては、衛生環境整備面では上水道を優先するという政策上の問題、下水道への国民の関心の低さ、第二次世界大戦の軍事費優先などにより下水道整備は行われなかった。

 公害と下水道
 戦後、日本経済が順調に復興し、産業活動の活発化に合わせ都市の人口集中化が始まるとともに、環境悪化、公害が大きな問題となってきたため、「都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与する」目的で一九五八(昭和三三)年新下水道法が制定され、そして、大都市内はもちろん近郊の河川にまで及んだ水質汚濁対策が急がれるもと、一九七〇(昭和四五)年の下水道法改正に際し、「公共用水域の水質の保全に資する」という文言がその目的に加えられ、今日の下水道法体系が形成された。

 (2) 本市における公共下水道

 雨水整備
 一九四六(昭和二一)年一二月、当地方を襲った南海道地震による地盤沈下により市街地、とりわけ、米湊旭町・安広地区等の「低地」では、排水路が満潮時の大量降雨に対応しきれず度重なる浸水被害を受けた。また、一九六一 (昭和三六)年に赤痢が集団発生したことから環境整備の面からも、下水道整備の要望が高まった。
 これらにより、一九六三(昭和三八)年、合流式下水道計画を策定し、直ちに事業認可を得て同年から西部排水区(灘町及び米湊地区の一部)の工事に着手、その後、事業計画及び事業認可の変更を重ねながら一九七〇(昭和四五)年に「梢川ポンプ場」を築造した。
 また、一九七一(昭和四六)年に、都市下水路事業として米湊都市下水路及び相田都市下水路の事業認可を受け、排水路及び「安広ポンプ場・大谷ポンプ場」を整備することで、三ポンプ場機能の概成(概ねの完成状況)をみることができた。一九六三(昭和三八)年の事業開始以降、これまでに要した事業費は約二五億五、〇〇〇万円であるが、雨水排除システムとしてはあくまでも概成であり、第72表に示す六排水区全体の整備に引き続き取り組んでいる。

 汚水整備
 高度経済成長期の極端な公共用水域の水質悪化は、上水道・漁業・農工業用水・水浴などのレクリエーションの場としての価値減少など、あらゆる分野に直接的あるいは間接的に被害をもたらした。とりわけ、閉鎖性水域の水質汚濁は深刻なものとなり、その改善を図るためには流入する汚濁負荷の総量規制が必要となった。
 本市が大きく関係する瀬戸内海は、東京湾・伊勢湾と並び広域的な閉鎖性水域に指定されており、特に、瀬戸内海の富栄養化による赤潮などの被害の発生を防止するため、一九七三(昭和四八)年、瀬戸内海環境保全特別措置法が公布されるなど、汚濁物質が公共用水域にそのまま排出されることを防ぐ最後の砦としての役割を担っている下水道の整備が急がれることとなった。
 本市においてもこの立場から、西部排水区も含め区域拡大等下水道計画の全面見直しを行い、分流式による公共下水道の第一期計画として、一九七四(昭和四九)年二月二二日、処理区域面積約八三・七ヘクタールの事業認可を受け事業に着工、一九八八(昭和六三)年、先行施行の雨水施設の骨格を概成させたことにより、翌年度から本格的に汚水整備事業に取り組むこととなった。汚水管路布設工事の進捗度を勘案し、一九九二(平成四)年から終末処理場の建築工事に着手、四か年の継続工事をもって一九九五(平成七)年一二月二二日、「伊予市下水浄化センター」として完成、供用開始に至ったのである。
 その後、本市の都市計画に定める市街化区域全域に処理区を拡大するため、第二期~第四期へと計画を発展させるもとで、二〇〇三(平成一五)年三月末日現在、三八〇・六ヘクタールについて整備を行うべく事業を鋭意展開しているものである。なお、第73表はこの汚水整備に要した事業費を年度別に、第74表は整備並びに管理状況を、それぞれ掲げたものである。

 下水道事業経営
 下水道事業は地方財政法上、公営企業として位置づけられている。したがって「雨水公費・汚水私費」の原則に従い、汚水処理経費を使用料収入で賄う必要があり、建設から管理運営に至るまで、「経営」という視点で使用者の理解と協力を得ていく必要がある。
 使用者との関係については、汚水処理というサービスの提供に対して使用料を支払ってもらう、という図式で成り立っていることと同時に、下水道法第一〇条の規定によって処理区域においては使用を強制することになっており、更には、下水道事業は地域独占的な事業である。これを使用者側から見た場合には、一旦水道の処理区域に入った場合には、選択の余地が無く下水道を使用し使用料を支払わなければならない構造になっているということである。
 このことは、事業者側においては経営状況の公開を積極的に行い、使用料の設定についても、使用者側に対して十分な説明責任を果たさなければならない義務が課せられていることにほかならないが、ただ、第74表の管理状況諸元が示すように、平成一四年度末現在における一立方メートル当たりの汚水処理費と使用料の関係は、処理原価が約八六二円であるのに対し下水道使用料は約九二円と、その回収率は一〇・七%にしか過ぎないのである。
 設備投資経費である資本費(設備投資に要した起債の元利償還費)を除き、直接の運転費である維持管理費の回収率を見ても三六・四%と、三分の一強程度である。その不足額は当然、市税の補填で賄われており、公営企業として満足できているとは言い難い状況にある。なお、第75表は、汚水下水道の供用時及び八年ぶりに改定した「公共下水道使用料」である。

 下水道の役割と今後の整備手法
 今日、下水道の役割として大きくは、(1)生活や生産活動に伴って生ずる汚水を速やかに排除し、悪臭や害虫・伝染病などの発生を防止することによる「生活環境の改善」、(2)収集した汚水を浄化した後に海や川に放流することによる「公共用水域の水質保全」、(3)市街地に降った雨を速やかに排除し、都市を浸水から守る「浸水の防除」の三点が挙げられるが、最も身近に実感できるものは、下水道の最も基本的な役割で文化のバロメーターともいわれ、快適な生活のための重要な要素である便所の水洗化である。
 また、今後汚水処理施設の整備に当たっては、汚水を下水道管に接続して終末処理場で処理する公共下水道や農業集落排水施設などの集合処理方式か、汚水の発生源である個々の敷地内において合併浄化槽などにより処理する個別処理方式か、を経済性・効率性という費用対効果を基本に緊急性、地域特性、管理の容易性等々の多面的な要素を追求し、最も適切な手法を選定することが極めて重要となっている。

第72表 公共下水道雨水整備状況

第72表 公共下水道雨水整備状況


第73表 公共下水道特別会計歳入歳出決算の推移

第73表 公共下水道特別会計歳入歳出決算の推移


第74表 公共下水道汚水整備及び管理状況諸元

第74表 公共下水道汚水整備及び管理状況諸元


第75表 公共下水道使用料

第75表 公共下水道使用料