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伊予市誌

一、道路

 藩政時代には、松山から大洲街道が南に延び、更に街道筋の旧郡中町から別れて、灘(双海町)街道と森松(砥部町)街道があり、これら主要道路から更に村々への道路が通じていた。古くから独特な風致を見せていた新川街道筋の松並木は戦時中に伐採させて今は見る影もない。旧街道が現存する市内大平の石原では道幅がわずか二メートル余りで、荷車が通るのに必要な幅員であった。
 明治時代になって次第に道路や橋梁の整備が行われた。一九〇五(明治三八)年中山道(国道五六号線)が完成し、大正から昭和時代初期にかけて森松道(伊予川内線)・上灘道(国道三七八線)・唐川線(大平砥部線)などが順次開通して、現在のような交通体系ができあがった。これらの基幹道路の建設はほとんど県に依存し、町村の道路事業は部落間の連絡道や農道の新設改良であった。
 新市が発足した一九五五(昭和三〇)年にはまず建設五か年計画が樹立されたが、それによると国道代替線の新設、産業道路の整備、国道松山高知線の舗装整備、上灘線・砥部線・七折線の拡張の推進などがとりあげられた。この五か年計画は道路整備の性格や市の財政事情から見て国・県に依存することが多かった。また、市道の改良にあっては受益者負担の方式を定めて事業の推進を図り、補助事業についても積極的に進めた。一七五七(昭和三二)年には市道七反線(三島町線)が完成したのをはじめ、新市育成事業として七一三万円を費やし市道一二線の整備を行った。
 国・県道の整備も順次行われ、国道代替線も用地買収などで難航したが、バイパス道(市場・馬塚間)も下吾川の立体交差や伊予跨線橋も含めて一九六二(昭和三七)年には完成を見た。
 市内の各道路とも交通量の増加に伴って舗装の要望が次第に強まり、一九五七~五八(昭和三二~三三)年には国道松山高知線のうち、市内では湊町から三島町間の舗装が完成した。また、旧伊予川内線も市街地が先ず舗装されて、市の中心部から順次整備がなされてきた。市道の改良についても、稲荷本村支所線や森尾崎海岸線などが一九六三(昭和三八)年に完成し、また、産業道路馬塚線や梢川暗渠工事もこの年に完成した。
 一方、農林道の整備事業も各地区で進められた。上野地区では下三谷農道が、大平地区では農業改善事業として上大平農道が、また、市営平岡農道などの大規模な農道整備が行われ、いずれも一九六五(昭和四〇)年に完成した。特に平岡農道四、〇〇〇メートルは着工以来六か年の歳月を要し三、一〇〇万円を費やした。この平岡農道は一九七二(昭和四七)年三月県道に昇格して一層整備された。
 県道の整備も次第に進められて、一九六二(昭和三七)年に砥部伊予松山線、大平砥部線が、一九六三(昭和三八)年には伊予長浜線がいずれも継続事業として改良工事に着手した。同時に伊予川内線と伊予長浜線等の舗装工事も部分的に施行されるようになった。
 昭和四〇年代になり、各道路の交通量はますます増加して、市内の国道や主要地方道などでも交通渋滞が起こり混雑するようになった。こうした時代の要請もあって、中央都市圏構想に基づく国道五六号線の改修が要望せられるようになった。道路に対する市民の関心は、交通事情と相まって一層高まり、市道の改良及び舗装の要望が各地で強まってきた。それにこたえて、本市は市道の整備を重点施策の一つとした。そのことは、道路橋梁費の支出を見ると明らかで、一九六六(昭和四一)年度は二、二〇〇万であったが、一九六九(昭和四四)年度には六、二〇〇万円に、一九七一(昭和四六)年度には一億三、二〇〇万円にと、加速度的に増加している。
 農業整備事業も各地区で行われ、農林漁業用揮発油税の財源身代わりとしての農業整備改良事業も進められた。上吾川・下三谷道路は延長三、〇〇〇メートル余りで、五、六〇〇万円を費やして一九六八(昭和四三)年に完成し、現在幹線道路として利用されている。また、一九七一(昭和四六)年には観光産業開発道路として、谷上山線が自衛隊の協力によって完成した。
 国道・県道についても、改良工事・舗装工事・橋梁工事が年度を追って行われた。特に国道五六号線改良工事は、車両の大型化と激増に対処して急速に進められ、一九七〇(昭和四五)年に犬寄大橋と犬寄隧道が開通した。県道では伊予長浜線の豊永橋が一九六八(昭和四三)年に落成し、道路改良工事は一九七三(昭和四八)年に完成した。同線の舗装工事も車の運行の円滑化と環境向上のため急速に進められ、現在では全路線が整備されている。
 昭和五〇年代には、社会経済の発展に伴い都市間の交通量の増加と車両の大型化により、国・県道はもとより市道を含めた交通体系の整備がさらに要請されるところになった。伊予市合併当時に定められた道路改良などに伴う受益者負担の制度を一九七五(昭和五〇)年に廃止し、国・県の補助事業もあわせ積極的に生活圏及び産業基幹道路の整備を行った。このため、市道路線の整備に一九七五~一九八四(昭和五〇~五九)年の一〇年間で、三三億五、六〇〇万円を投資した。なかでも、一九七四(昭和四九)年に着工、一九七九(昭和五四)年に完了した市道鳥ノ木下三谷線(県道伊予川内線)は、延長一、三五七メートル・幅員一二メートルで事業費五億三、八〇〇万円を要し、国道五六号線を起点に、下三谷地区で国鉄予讃線と立体交差し、主要地方道伊予川内線に通じた。また、国鉄内山線にあわせて一九八五(昭和六〇)年に完成した市道稲荷中村線は、延長四七〇メートル・幅員一〇メートルで事業費二億四、六〇〇万円を費やし、国道五六号線から国鉄向井原駅を経由国道三七八号線に至るもので、本市の主要幹線道路として整備され、現在は愛媛県の緊急輸送道路になっている。
 一方、農業基盤の整備のため、農林道整備事業も市内各地区で進められた。特筆する事業としては、農林漁業用揮発油税財源身代わり農道として、中村地区道路が延長三、二〇七メートル、事業費一億二、七〇〇万円で、一九七五(昭和五〇)年に完成した。引き続き同路線の舗装工事が一九七八(昭和五三)年に八、四〇〇万円の事業費を投じ完成した。更に、下三谷地区道路については、一九七九(昭和五四)年に延長一、八五三メートル、事業費二億三、九〇〇万円で完成、地域の農業経営に大きく貢献している。
 国道・県道については、一次改良の終わった県道伊予長浜線が一九七五(昭和五〇)年に国道三七八号線に昇格以来、車両の大型化と増大に対応して更に改良工事が進められ一九八五(昭和六〇)年には双海町から尾崎地区に至る区間の路線がほぼ完了し、現在は線形などが悪い三秋地区について一九九五(平成七)年から事業を起こし、改良を実施している。
 昭和六〇年代以降平成時代に入ると、愛媛でも待望の本四3橋の完成を迎え高速道路網の整備の必要性が一層高まってきた。伊予市においても川内・伊予間が一九八八(昭和六三)年に路線発表され、一九九七(平成九)年に供用開始され、伊予・大洲間についても一九九一(平成三)年に路線発表を行い、二〇〇〇(平成一二)年に供用の開始を見た。これにより、時間短縮と物流の効率化が促進され、生活圏が拡大され、地域経済が活性化されてきた。現在もなお、エックスハイウェイから8の字ハイウェイの整備が進められている。
 国道五六号についても、四国縦貫自動車道伊予インターの一九九七(平成九)年の供用開始に伴い、慢性的な交通渋滞解消の為、松前町筒井から伊予市向井原までの六・四キロメートルの四車線化が一九九三(平成五)年から開始された。
 県道についても主要地方道伊予川内線のバイパス(上三谷・上野間)が一九九一(平成三)年に完成したことに伴い、市道新川馬塚線及び市道鳥ノ木下三谷線が県道に昇格し、一九九二(平成四)年から現在の国道五六号線を起点とする伊予川内線の区域に変更された。また、主要地方道大平砥部線や松山伊予線なども二車線化が随時施行されている。
 市道についても、一九八五(昭和六〇)年度に創設された緊急地方道路整備事業や一九九二(平成四)年度から実施された地方特定道路整備事業を積極的に活用し、伊予総合公園(しおさい公園)へのアクセス道路の尾崎中村線や伊予インターへのアクセス道路の稲荷下三谷線と下三谷楠木線を、また上野団地への進入道路の下郷堤線を住宅宅地関連公共施設整備促進事業などで随時改良を進めていった。
 しかし、昨今の厳しい財政状況のなか、国・県の補助事業や市単独事業においても道路関係予算は一九九五(平成七)年をピークに年々減少している。道路事業も生めや増やせの時代から量より質を目的とした事後評価の実施や目標達成の評価などに変わってきている。