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伊予市誌

第八章 徴兵・兵事


 徴兵制度
 一八七三(明治六)年四月、我が国に徴兵令が公布され、それまで各地鎮台に入営していた壮兵に替わることになった。当地方は広島鎮台に属し、徴兵署が松山に設置され、丸亀歩兵第一二連隊所属となったが、一八八四(明治一七)年に松山に歩兵第二二連隊が設けられてから歩兵は主としてここに入営した。徴兵制度は国民皆兵の主旨によるもので、その後何度も改正され、一九二七(昭和二)年の兵役法になって完全なものとなった。徴兵制度によって我が国の男子は満二〇歳になると全員必ず徴兵検査を受けた。その結果それぞれの兵役に服することになり、現役に属する者はおおむね二~三年の間入営して軍隊生活をした。入営期聞が終わると帰郷して予備役・後備役・国民兵役などに編入され、在郷軍人会(明治四三年発会)に所属した。在郷軍人は、いったん国家に事あるとき、召集令状(動員令)を受けて指定された日時に指定の部隊に入隊して現役軍人とともに護国の任を果たすことになっていた。

 明治時代の戦乱
 一八七三(明治六)年征韓論に破れた西郷隆盛は一八七七(明治一〇)年一月、一万五、〇〇〇の兵で熊本城の官軍を包囲した。いわゆる西南戦争である。この戦争に当地方からも何名か参加し、戦死者もあった。一八九四(明治二七)年八月、我が国は清国(現中国)に対して宣戦を布告し、翌年四月まで北朝鮮や南満州で戦火を交えた。これを日清戦争といい松山の歩兵第二二連隊もこの戦いに出動した。当地方からも多くの人が出征し、なかには戦死や戦病死をした者もあった。続いて一九〇〇(明治三三)年の北清事変や一九〇四~一九〇五(明治三七~三八)年の日露戦争にも我が国は軍隊を出して大いに戦い大勝利を得た。この戦いにも当地方から従軍した者が多く、戦死者も出た。

 大正時代の出兵
 一九一四~一九一八(大正三~七)年、いわゆる第一次世界大戦が行われ、我が国は日英同盟条約によって参戦し、清国の青島を攻略したり南洋の島々を占領して、遠く地中海にまで出撃した。また、一九一八(大正七)年から一九二二(大正一一)年まで、我が国はソ連のシベリアへも出兵した。

 満州事変から日中戦争ヘ
 一九三一(昭和六)年に起こった満州事変や一九三七(昭和一二)年に始まった日中戦争で次第に戦線が広がり、戦いは日々激しさを増した。そのため全国から戦地に送られる将兵はおびただしい数になった。松山第二二連隊も出征すると同時に当地方の在郷軍人にも多数の召集令状が来て勇躍応召したが、その中にはまた数多くの戦死者や戦傷病死者を出した。

 太平洋戦争
 日中戦争の結末を見ないままに一九四一(昭和一六)年には太平洋戦争が始まった。この戦いこそ我が国にとって建国以来未曾有の大戦で人的にも物的にも膨大な国力を消費した。当市内でもこの大戦に応召して戦死若しくは戦傷病死した者は実に八〇〇人近くにも及んでいる。
 松山市の城北、御幸寺山のふもとにある愛媛県の護国神社は明治戊申の役以来の軍人や軍属の戦没者、その他公共のために尽くした人々を祭っている。また、東京の九段には全国の戦没者を祭っている靖国神社がある。当市には五色浜公園の南西隅の小高い所、すなわち粥喰山頂に「忠霊塔」がある。明治以後の各戦争や事変などにおける伊予市出身戦没者ならびに公務殉職者の御霊を慰め、その功績を永く後世に伝えるため、一九六五(昭和四〇)年七月に建設された。これは「伊予市戦没者ならびに公務殉職者慰霊塔建設期成同盟会」によって建てられ、建設後の管理運営は「伊予市忠霊塔奉賛会(昭和四一年四月一五日結成)」によって行われている。現在この塔に合祀されている英霊は九七〇柱である。