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伊予市誌

1 国政選挙

 明治時代
 第一回衆議院議員総選挙は、一八九〇(明治二三)年七月一日に行われた。選挙権は納税額一五円以上の男子に与えられる制限選挙で、有権者は全国で約一五万人であった。この総選挙は小選挙区制で、議員定数は七名であり、自由・改進両党が激しい弁論戦をもって争い、自由党の藤野政高と長屋忠明が当選、改進党の小林信近が落選した。
 第四回は一八九四(明治二七)年九月一日に執行された。このときの総選挙は、前回からわずか三か月後に解散して行われたもので、第一区は非常な激戦となり自由党の総帥藤野政高、改進党の首領高須峯造が落選したのは注目すべきことであった。このときの総選挙で宮内治三郎(灘町出身)が当選した。
 一九〇〇(明治三三)年に衆議院議員選挙法が改正され、小選挙区制から大選挙区制となった。この改正によって松山市は独立選挙区となり定員は市部一人、郡部七人で合計八人の議員を選出することができることになった。総選挙後、政友会・憲政本党両党首の会見によって政憲両派の連合が成立し、政府の増税案に反対したので、議会は解散した。第八回総選挙は、第七回総選挙後わずかに七か月を経過した同三六年三月一日に行われ、郡部選挙区で武市庫太(松前町出身)らが当選した(『愛媛県史概説』)。

 大正時代
 第一次世界大戦の余波を受けて次第にインフレとなり、生活難の声がいたる所に起こった。この沈痛な生活難の叫びが全国的に波及して暴動化したのが、いわゆる米騒動であった。当時の寺内内閣はそのため責を負うて一九一八(大正七)年九月二一日に総辞職した。
 第一四回は大正九年五月一〇日に執行された。第一次世界大戦後内外の思想は一変して民主的な革新思想が広まり、普通選挙の問題が最も真剣な政治問題として論議されるようになった。このときの選挙は小選挙区制をとって、伊予郡・温泉郡を二区選挙区として選挙が行われた。
 一九二一(大正一〇)年一一月四日、東京駅で原敬が暗殺され、議会で絶対多数の二八〇人の議席を持っていた政友会も内部の意見対立で、ついに二分するに至った。内閣擁護派は新たに政友本党を結成(一四八人)した。
 第一五回は一九二四(大正一三)年五月一〇日に執行された。総選挙の結果、政府与党は敗北して、政権は護憲三派の中堅である憲政会総裁の加藤高明に下った。そして憲・政・革護憲三派の連合内閣を組織した。加藤内閣の政治業績は行政整理、貴族院改革、治安維持法制定、普通選挙法実施が主なものであった。なかでも普通選挙法が成立したことは特筆すべきことであった。
 第一六回は満二五歳以上の男子が選挙権を持つ普通選挙制度最初の選挙として一九二八(昭和三)年二月二〇日に行われた。この選挙から中選挙区制が採用され、本県は三選挙区定員各三人であった。伊予郡は一区に属し伊予郡南伊予村出身で県会の論者として活躍していた武知勇記が、民政党から立候補した。武知勇記はこの時の選挙では落選したが、一九三〇(昭和五)年二月二〇日施行の第一七回選挙で当選、以後、第一八、一九、二〇、二一回と戦前四回の選挙に連続当選を果たした。

 昭和・平成時代
 一九四六(昭和二一)年四月一〇日、終戦後最初(第二二回)の衆議院議員選挙が行われた。これは日本最初の男女同権による総選挙で、保守・革新が入り乱れて各地で激烈な選挙戦が展開された。この選挙ではじめて女性議員が三九人当選した。
 一九四七(昭和二二)年は選挙の年と称せられ、日本民主化の前提として各府県会議員・参議院議員・衆議院議員・知事・市町村長・市町村会議員などの選挙が行われた。一八八九(明治二二)年二月一一日の発布以来わが国の基本法として存続した「大日本帝国憲法」は、一九四七(昭和二二)年五月二日をもって終止符を打ち、敗戦の体験から生まれた民主憲法が五月三日に発布された。四月二五日の総選挙の結果、社会党が優勢で一四二、自由党が一三三、民主党一二六、共産党四であった。新憲法下の第一回の国会で社会党の片山哲を内閣首班に指名し、社会・自由・民主の三党連立内閣を結成した。しかし、その後公職追放問題、更に与党内左派の野党的攻撃によって、一九四八(昭和二三)年二月一日内閣は総辞職した。そして同年一〇月一五日に第二次吉田内閣が成立したが、野党の不信任案が多数をもって可決されたので一二月二三日解散した。
 第二五回は一九五二(昭和二七)年一〇月一日に執行された。第二次追放解除によって武知勇記が政界に復帰し、独立後第一回の総選挙に当選した。武知勇記は一九五四(昭和二九)年一二月一〇日、鳩山内閣の郵政大臣に就任した。一九五五(昭和三〇)年一月二四日に国会は解散し、同年二月二七日第二七回総選挙の投票が行われ、不運にも武知勇記は落選した。県下はこのころ知事選に次ぐ総選挙で、県民も選挙にてんやわんやであった。
 第二八回選挙は一九五八(昭和三三)年五月二二日に執行された。前回落選の武知勇記は一区で最高点で当選した。しかし、一九六〇(昭和三五)年九月初旬、引退を表明した。
 第三八回総選挙は一九八六(昭和六一)年七月六日に執行され、このとき伊予市及び伊予郡が一区から三区に編入された。
 一九九四(平成六)年には政治改革関連法が施行され、一九九六(平成八)年の第四一回総選挙で、我が国初めての小選挙区比例代表並立制が実施された。
 衆議院議員選挙における本県当選者は次のとおりである。

 参議院議員選挙
 参議院議員選挙は、一九四七(昭和二二)年四月二〇日に第一回が行われたが、その日は春のあらしが吹き、暴風雨の状態のためか投票率は非常に悪かった。棄権率は男三〇・五%、女四五・四%であった。このころの選挙は全く自由選挙で応援演説隊の制限もなく、連呼も勝手放題であった。
 参議院議員の任期は六年で、半数改選制と全国区、地方区の二つの選挙区制でスタートした。その後、一九八二(昭和五七)年の改正により全国区制が拘束名簿式比例代表制に改められた。
 二〇〇〇(平成一二)年には、拘束名簿式比例代表制について、候補者の顔が見えない、過度の政党化が進む、政党が決定する順位付けが有権者に分かりにくい、などの批判により非拘束名簿式比例代表制に改正された。
 参議院議員選挙地方区・選挙区で愛媛県から選出されたものは次のとおりである。

衆議院議員選挙本県当選者 ①

衆議院議員選挙本県当選者 ①


衆議院議員選挙本県当選者 ②

衆議院議員選挙本県当選者 ②


衆議院議員選挙本県当選者 ③

衆議院議員選挙本県当選者 ③


政党名

政党名


参議院議員選挙地方区・選挙区愛媛県選出者

参議院議員選挙地方区・選挙区愛媛県選出者