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伊予市誌

1 郡中町の米騒動

 騒動の勃発
 一九一八(大正七)年八月一四日の午後八時、郡中町大字湊町の湊神社に町の漁民などが多数集結して不穏な状態にあった。所轄郡中警察署長の井手警部は、数人の巡査を率いて現場に行き説諭をしていたが、群衆の半数ほどはこれに応じず、たちまち、同町灘町の米穀商兼酒造業方を襲い、店舗を破壊して米穀を路上に撒き散らし、路上で空俵に放火した。余勢は、酒倉に入って、二〇余石入りの大桶に充満している酒一七個を破壊流失させた。この報が湊神社に伝わると、同所に集まって署長の説諭を聞いていた群衆は、暴動に加担するべくたちまち現場に殺到した。暴徒は大いに勢いを得て、平素より米価騰貴で多大の利益をあげていると噂されていた同町の米穀商方を襲い、店頭の戸障子や器物を破壊し、米穀を路上に撒き散らしたり溝に投げ捨てた。このときの暴徒の数は、約三〇〇人にも達していた。暴徒は更に数隊に分かれ、同町の米穀商一九戸全部を襲い、同じように破壊暴行を加えた。

 暴行誘発の直接動機
 暴徒と化した漁民たちは、米価騰貴のため生活難を訴え窮状に陥っており、同町有志が金穀を拠出して外国米の廉売方法を講じ、それに加えて、同月一五日から、白米を一升二五銭で一回五升に限って貧民に発売することが決まっていた。こうした救済策がたてられ、また、その窮状が未だ暴動を引き起こすほどではなかったにもかかわらず、にわかに一四日夜に爆発したのは、米穀商を営む者が暴利をむさぼっているという噂に、漁民など群衆が強い憤りを感じて憎しみを持ったことにある。そこで、まず前述の米穀商兼酒造業方を襲い、群衆は勢いを得て、他の米屋にも暴行に及ぶことになったのである。

 暴徒の鎮圧
 郡中署には巡査がわずか五、六人しかいないのでどうすることもできず、暴徒のなすがままを傍観するほかなく、署長は県警察部に応援の派遣を申請した。午後九時、暴徒が米穀商兼酒造業方に殺到し襲撃したとの報が県警察部に伝えられると、直ちに高橋保安課長と松尾高等主任が先発出動し、大森警察部長は若林知事の命を受けて巡査二五人を引率し、九時四〇分の松山駅発列車で郡中へ急行した。汽車は暴徒の襲撃を恐れて郡中駅の手前の新川に停車したため、ここで下車して現場に急行することになった。町内の門灯・街灯が破壊されていて真っ暗なうえ、米穀が道路一面に撒き散らされ、あたかも砂漠を行くようであったという。一般の商店は戸を閉めて警戒しているなど何となく殺気がみなぎっている町中で、向こうの方で破壊の音と暴徒のかん声が高く響いているので、今なお暴動が続いていることを知った警察隊は、駆け足で現場に向かった。暴徒の中には反抗の気勢を示す者もいたが、巡査の果敢な活動によって四散した。そのころには、暴徒は数隊に分かれていたので、巡査も東西に分かれて活動し、午後一一時には鎮圧することができた。
 大森警察部長は、現場での現行犯検挙が暴徒仲間の団結意識を刺激して反抗心をあおることになると感知し、高橋保安課長ほか数人の私服巡査に命じて朱肉をハンカチなどに包んで持たせ、暴行者や指揮声援している者に近付いて、彼らの着衣に朱肉を押して後刻の検挙に都合の良いようにした。暴徒が現場を引き揚げて後、一部の十数人が湊神社に集まり四斗樽を抜いて飲酒しているのを包囲して、主な者六人を逮捕した。翌日午前二時ごろからは同漁民部落を襲い、巡査たちが、現場で仕切っていた者や朱肉が付着した衣服やジュバンを持っている者を引致、その数は一四〇人に達した。その他任意出頭した者を合わせると約二〇〇大に達し、松山検事局から出張した神岡・藪下両検事と高橋保安課長、神部警部、片上巡査部長が取り調べに着手した。

 翌日の警戒
 団結力の強い漁民たちは、仲間が入獄することなどがあれば共にしたい、取り調べが遅延したり、拘束を受ける者があれば奪い返さずにはおかないと言って、一五日には、引致された者以外の老若男女が仕事を休んで朝から湊神社に集合し、あるいは警察署前に押し掛けた。署内には約二〇〇大の引致者がおり、内外相応じてかん声を挙げ、血気にはやる数人は警察署の留置場を襲って、「主な者十数人が留置場にいるが、我々との間に罪の軽重があるわけではない。」と叫び、場外に連れ出そうとするなど不穏な行為に出たが、高橋保安課長と井手郡中署長の説諭で大事に至らなかった。一方、湊神社に集まっていた者に対しては、井手署長と郡長が出向き、利害を説明してやや静かになった。犯人の取り調べは多数であったため、容易にはかどらず難航したが、日没前にようやく終わった。しかし、町内には、警察署を襲撃して被告を奪還するとか、被告のために郡長・町長・町議が世話・陳情の労をとらなかった場合は彼らを攻撃する準備をしているとか、あるいは中山や松前に暴動が起こるとか、様々な流言飛語が飛び交い人心が安定しないため、軍隊の出動を要求する者もいた。警察当局は、人心の安定と万一を警戒することの必要性を認め、警察本部・松山署から一〇人、内子署から七人の巡査を招集して警戒したため、一五日夜の郡中町は、暴徒たちの乗ずる機会もなく事故は起こらなかった。ところが、午後九時ごろ、松山市で騒動発生の知らせがあった。大森警察部長は、井手郡中署長が過労で寝込んだため永井警部に代理を命じ、内子署からの応援巡査七人だけを郡中署に留め、他は全部引率して午後九時五分の郡中発特別列車で急ぎ帰松した(『資料愛媛労働運動史・第二巻』)。

 郡中村の騒動
 郡中村では八月一七日、村民二人が米穀商を襲い、精米機械を破壊すると脅迫して白米廉売を強要し、所轄郡中署に検挙された事件が起こった。

 米騒動以後の処置
 県当局は、市・町・村当局と協力し、米価の暴騰を抑え、外米を買い入れて内地米とともに廉売したり、あるいは義援の金・米を募って、これを貧民救済の資として人心の安定に努めた。郡中町の宮内小三郎は、窮民の惨状を察して、持米三五〇俵(一俵六〇キログラム)を一升(一・四キログラム)二五銭で、町内役場及び夜間学校内で町民一般に販売した。このように何らかの応急策をとったことで、荒れていた気配も次第に落ち着き、小康状態を続けるようになった(「愛媛新報」大正七・八・一七付)。