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伊予市誌

2 労働組合運動

 労働運動の高まりと挫折
 第一次大戦後の過剰生産恐慌に始まる慢性的不況が進行する中で、物価騰貴に伴う実質賃金の低下は労働者の賃金値上げ要求となり、賃上げを要求する労働争議が全国的に頻発した。それと同時に、大戦後のデモクラシーの風潮(大正デモクラシー)は、労働者の基本的権利を要求する近代的自覚を促し、労働組合運動を発展させた。運動の中心となった組織は、日本労働総同盟であった。一九二二(大正一一)年七月には日本共産党が創立され、同年一〇月の総同盟大会では、階級闘争によって労働者階級の完全なる開放と自由平等の新社会の建設を期すという綱領を決定した。米騒動以後成立するようになった政党内閣の一つである加藤高明護憲三派内閣は、一九二五(大正一四)年に普通選挙法を制定したが、一方では、労働運動及び民主主義思想などの行き過ぎに対する取締法として、同年治安維持法を公布した。総同盟の内部でも、急進的な運動方針を改めようとする動きが起こり、左派と右派に分裂した。その後、治安維持法が改正されて最高刑を死刑とし、日本共産党や労働組合運動に対する取り締まりが強化されたので、大正時代末期から昭和時代初期にかけての数年間に展開された労働運動は、極めて困難な条件の下で正常な発展を遂げることができないで挫折した。
 一九三七(昭和一二)年七月、中国に対する開戦とともに政府は戦時体制を敷き、政治経済の統制を強化し、労働運動に対して弾圧を激しくするとともに、言論思想の統制をますます強化するに至った。一九三八(昭和一三)年五月の国家総動員法の公布によって統制は更に強化され、政府は、国民の財産・労力などを政府の欲するままに動員し、国民生活のすべてを統制し得る絶対的な権利を握ることになった。

 伊予市域における労働・農民運動
 この間の伊予市域における労働・農民運動の状況は、次のとおりである(『愛媛労働運動史・第二巻~第八巻』)。
 北山崎村三島の陶器業者不況のため、職工賃金一割五分値下げを職工にはかり、職工がこれを拒否したため、一三日間休業。職工は、これに反抗して形勢不穏。村長が調停して妥協した(大正三年五月二七日)。
 松山市・伊予郡・温泉郡の石工同業組合、賃金一日一人役二円に値下げ(大正七年六月)。
 松山市・三津浜町・郡中町の鉄工業・鋳造業者が同業組合を創立。鉄工・鋳造工の賃金二割引き下げを決定(大正一〇年二月)。
 郡中町の伊予陶器会社は、価格が半額に下がったため、四月一日より三か月休業することにし、この日に職工全員一〇〇人を解雇。休業中の賃金の三分の一を支給。職工は土着の漁民が大部分(大正一〇年四月)。
 南伊予村下三谷で水平社講演会。水平社南伊予村支部を設立(大正一二年五月)。
 自作農創設維持によって争議の根本的絶滅を期し、調停によって争議の円満な解決を図る目的で、地主七人、小作六四人が北山崎村本郡農事協調組合を結成(大正一四年四月)。
 郡中町の伊予陶器会社が本工場・砥部分工場ともに休業閉鎖。職工一、五〇〇人を解雇(大正一五年一二月)。
 南山崎村大平で小作人一三七人が全国農民会を結成(昭和六年一月)。