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伊予市誌

1 概説

 町内会及び部落会制度は戦時中に戦争遂行・国策協力などで行政の末端組織を全国的に整備充実する目的で、一九四○(昭和一五)年九月一一日に内務省令第一五号をもって整備要領が出された。それによると、国民はすべて翼賛の本旨にそって行動することを強要せられ戦争遂行ということに重点を置かれていたが、終戦後の一九四七(昭和二二)年一月には占領軍司令部の指示に基づいて廃止された。もっとも、これは部落会や町内会を全面的になくしようとするものではなくて、いわば戦時色を一掃して隣保扶助の精神に基づく自然発生的な地域的協同体として、地方共同の任務を遂行する自主的組織で町内会部落会の本来の姿に立ち返らせる趣旨であった。これによって、町内会長・部落会長・同連合会長が行っていた転出入の証明・配給通帳の検印・居住証明・税金の徴集などの行政的な事務は市町村に移管を命ぜられた。更に同年五月三日に政令第一五号をもって町内会長・部落会長・同連合会長の職にあった者が四年間類似の職に就くことを禁じ、町内会・部落会・同連合会所有財産の処分を命じ、官公吏がその職務執行に関し、町内会・部落会および隣組を利用することを禁じるなどが規定された。このようにして町内会・部落会・隣組などの制度が完全に廃止されたので、住民の親睦を図ったり、町内や部落内の共同の事業を進める機関もつくることができなくなり、国民は等しく敗戦の厳しさを痛感したのである。
 その後、一九四八(昭和二三)年一二月二日に市町村広報委員の設置と広報座談会に関する県通達が愛媛軍政部の了解のうえ出され、各市町村に早急に広報委員が設置された。これらは末端組織として表面的な機能は弱体化しているが、実際には戦時中の名称を変えたものに過ぎなかった。そして、いつの間にか部落会・町内会に類似の組織がまた各地で自然に再建されていった。自治庁が一九五二(昭和二七)年に行った世論調査の結果では、禁止令後のわずか三か月以内に全国大部分の地域、すなわち七七・九%がこの種の地域的組織を再建していた。特に純農村地域においては九四%が再建されていたということである。これは事実上従来の部落会がそのまま継続されていたものと思われる。今日では全国ほとんどすべての地域にこの種の組織ができている現状である。これらの組織を見ると、戦時中のような広範囲な市町村の委任を受けているものはないが、依然として大部分のものは部落の自治事務だけでなく、市町村の委任事務も処理している。