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伊予市誌

1 農地調整と自作農創設

 第一次世界大戦後の農村不況と、いわゆる大正デモクラシー運動の波は農民に強い影響を与え、「耕作権確立」・「小作料減免」などを旗印とする小作争議がしきりに起こるようになり、労働争議などと相まって社会不安を起こした。政府はこれに対する施策を迫られ、一九二〇(大正九)年「小作制度調査委員会」を設置し、小作関係の調査を進めるとともに相次いで発生する争議解決の方策として調停制度の実施に努めた。一九二四(大正一三)年七月二二日、「小作調停法」が成立した。この法律は争議に際し、公平な第三者機関として裁判所または小作調停委員会が、当事者に対し互譲の精神をもって、鋭く対立した利害感情を緩和して解決を図ろうとするものであった。しかし、所有権本意の民法の諸原則が調停の基礎となっているため、地主は調停が不利であると思えばいつでも調停を打ち切り正式裁判を要求することができた。小作料は物納で高く最下田で一石、上田では二石台のものがあった。また、口頭契約による小経営の小作農家は不安定であった。このことは農村社会不安の大きな原因となった。
 政府は一九二六(大正一五)年五月、農林省令をもって「自作農創設維持補助規則」を公布し、自作農創設に踏み出した。これは都道府県を事業主体として、現に農業に従事し自作農地の経営を持続する見込みのあるもので、購入希望地が小作地である場合には、その小作人に対し購入資金の融通あっせん、資金利子の補給を行い、自作農家の創設を推進しようとした。これは、一九四二(昭和一七)年六月にこの制度が廃止されるまで一六年間継続実施された。
 以来、自作農の創設は農政上の重要課題とされ、一九二七(昭和二)年には「小作法案」が発表され、一九三一(昭和六)年帝国議会で審議された。また、一九三七(昭和一二)年農地法が議会に提出されるなどの対策が進められたがいずれも議決に至らず、ようやく一九三八(昭和一三)年八月に「農地調整法」が制定された。これは農地の所有者及び耕作者の地位の安定、農業生産力の維持増進のため、小作権の確立擁護をすることを目的とした。これの運用機関として各町村に農地委員会が設けられることになったが、地主の勢力が強くて小作人の権利意識も低い農村社会ではその委員は任命制であったから、ほとんど形式的に設けられたにとどまってその機能は有名無実に終わった。一九三八(昭和一三)年四月「国家総動員法」が制定され、多数の農村青年も動員されて軍需産業へ徴用されたため、農業労働力が奪われて農業は大きな影響を受けた。
 政府は、こうした戦争に伴う事柄に対処して戦時経済の維持を図り、農業生産力を増強して食糧を確保し、戦争目的を遂行しようとした。そのために国家総動員法の勅令委任条項を発動して、一連の戦時農業統制立法を行った。
 すなわち、一九三九(昭和一四)年一二月、「小作料統制令」一九四一(昭和一六)年二月、「臨時農地価格統制令」及び「臨時農地等管理令」が公布された。これは高額な現物小作料も据え置き、これと不可分の関係にある農地価格を統制し、農地の改廃統合と高度利用を図ろうとするものであった。次いで一九四二(昭和一七)年二月、「食糧管理法」が公布された。これは戦争が長期化し深刻化するにつれて主要食糧の確保を目的として、米穀の国家管理を行うものであった。この制度を通じて小作料の金納化と低率化の契機が生まれた。地主が小作料として受け取った小作米も自家保有米を除いて全部供出させられ、しかも保有米は在村地主にだけ認められ、更に米価の二重価格制が採用された。これは戦時低物価政策の維持と、増産意欲を確保するに足る米価の設定という、矛盾する目的を調和させるために生まれたものであった。こうして食糧管理政策と二重米価格制によって、高額物納小作料は低額金納小作料に転化していった。
 以上のように大正期以来、農地制度の改正は順次進められたが、常に対症療法的な対策にとどまり、その効果は農村社会の構造変化に及ぶものではなかった。