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伊予市誌

3 伊予園芸農業協同組合

 明治時代の新果樹
 本市の山野は瀬戸内海に面して気候に恵まれ、土質は主として結晶片岩と和泉砂岩からできており、地質的条件も果樹栽培に適している。そのため古くから農民の定住とともに梅・桃・すもも・なし・びわ・みかんなどの果樹が、自家用として屋敷や田畑のあぜや川端・山のふもとに植えられていた。今でも一〇〇年を経たみかんの木が見られる。
 明治維新以後、外国文化の導入と国民生活の向上に伴って果実の需要が盛んとなり、明治時代中期、なしと桃が松山市を中心として伊予・温泉の両郡に導入された。伊予市域においては、主としてなしが山ろくに植えられた。一時は「伊予梨」として盛大に売り出し、全国一、二位であった。『南山崎果樹園誌』(昭和三七年発行)によると、新果樹として最初に栽培されたのはなし・りんご・ネーブルであった。一九〇二(明治三五)年ころ、佐川与一・福井倉吉・吉澤兼太郎の三人が、時代に先駆けて果樹栽培を思い立ち、相携えてこれを植えた。吉澤は長崎谷に約一町歩開墾して、なしとりんごを植え、佐川は大南、長谷の畑や山に同じくなしやりんごを植えた。福井は武領の山に数反歩を開墾してなし三〇〇本、りんご一〇〇本を植えた。当時として苗木代(一本一〇銭位)は相当高額であった。しかし、いずれも病害虫の発生によって多大の被害を受けた。
 このようなことから、りんごは失敗し、なしはしばらく栽培された。一九三五(昭和一〇)年ころから植えた鵜崎の「二〇世紀なし」は優良品となった。ネーブルも一九四七(昭和二二)年ころまではあったが、今では早生みかんに改植された。梅は古くから在来種があった。クルミは一九二七(昭和二)年に約二町歩鵜崎に植えられた。下唐川にはクルミの自然林がある。びわは、今から一六〇~一七〇年前、上唐川本谷の畑の中村清蔵が初めて町に売り出し、金になったといって評判になった。当時の産額は二、三〇〇貫くらいであった。また、一八三五(天保六)年ころに大洲藩主加藤泰幹は、吉澤藤蔵にびわ苗数本を与え、地方特産物の発達に努めたという。
 一八九五(明治二八)年ころ、唐川本谷の影浦定次郎が和歌山県下を視察の際、びわは接木によって改良されることを知り、味のよいもの、大果のものを接ぎ替えた。一九〇三(明治三六)年に吉澤兼太郎は出張先で田中びわが、唐川びわより高値で取り引きされたのを見て、田中びわ・茂木びわの苗を導入した。こうして県内外の市場に名声を高める「唐川びわ」が誕生した。びわや柿は和泉砂岩地帯に栽培され、結晶片岩地帯には主として温州みかんが栽培された。
 小みかんは、古くから自家用として作られたが、温州みかんは一八八二(明治一五)年、大長系早生温州は一九一二(明治四五)年に、宮川早生は吉澤武久が福岡の持丸明三から一九三〇(昭和五)年に導入し、以来みかんの樹勢は盛んとなり、優良品種として万人が認めるようになった。一九三九(昭和一四)年ころ、海抜三三〇メートルの山腹にある平岡部落(大豆・とうもろこし畑)が早生みかん集団栽培地として、全農家がみかん農家となり、他に先駆けて電化し近代化した。

 組合設立まで
 果樹生産の増大とともに、生産物を自分たちの手で直接市場へ出荷しようとする機運が盛り上がり、各地において出荷組合が設立された。その数は三〇数組合にもなったので、ここに初めて出荷協同組合の誕生をみた。これはただ本市だけではなく、各郡市にも同じ状況が現れた。一九一四(大正三)年中予においては松山市・伊予郡・温泉郡を一区域として、各地の小組合を統合して伊予果物同業組合が結成された。京浜・阪神・九州などに指定問屋を置き安定した直接販売を行って、その成果は年々上昇していった。また、このころ朝鮮や満州方面への輸出が始まり、駐在員を派遣して販売に努めたため、当時生産量の三分の一がこの方面に出荷されていた。また、その当時からアメリカ向け輸出も始められたが、これは果物商人の手で行われた。年を追うに連れて温州みかんの将来性と有利性が認められて増植が盛んとなったが、これに反してなしの生産は衰退していった。やがて一九三七(昭和一二)年、日中戦争が起こり、続いて太平洋戦争へと拡大していった。この戦時体制下、一九四一(昭和一六)年九月に「青果物配給統制規則」が公布施行され、従来の果物組合では取り扱われなくなり、県知事が指定した出荷機関でなければ集荷・出荷・販売の業務ができなくなって、一九四二(昭和一七)年に伊予果物同業組合も解散した。代わって、伊予郡地区では伊予郡青果物出荷組合が組織された。また、海外取引については、同年愛媛貿易株式会社が設立され、専務に桜木寛一郎が推挙されて、満州・朝鮮・中国への輸出に努力した。
 一九四三(昭和一八)年に農業会の設立によって出荷団体の統合が行われ、従来の伊予郡果物出荷組合もこの傘下に置かれ農業団体が一本化された。このころからいよいよ統制は強化されて、果樹園芸の不遇な時代に突入した。終戦後、中央卸売市場が制定され、乱立していた問屋は中央市場に統合された。一九四七(昭和二二)年に農業協同組合法が制定され、本組合も同年に農業法人としての資格を備え、多数の小組合を統合して一元販売の実を挙げた。

 創立
 伊予園芸農業組合は一九四八(昭和二三)年九月に創設され、初代組合長に石田佐一郎が選ばれた。昭和二七年一月に果汁工場を本市三島町に開設し、同二九年六月にはカナダ向け輸出みかんが始まった。同年六月、二代組合長に角田工美吉が就任した。

 事業活動
 昭和三五年に本市新川に缶詰工場を新設、同三六年九月に柿のマーク統一を実施、同三七年(伊)直営撰果場設置と出荷容器を木箱からダンボールに変更、同三八年には早生みかん統合出荷並びに晩生みかんのマーク統一と協同計算方式を採用、同三九年一〇月に統合撰果場が完成、同四〇年に冷凍食品製造に着手し、冷凍食品工場を建設、同四一年九月から灌水事業を始め、同四二年には支部職員の身分を正式に伊予園芸に移管した。昭和四三年一月に本部事務所が落成して移転を行い、同年一〇月に第二撰果場が落成した。同四六年一〇月、加工場の大増設、第三代組合長に久保正勝が就任した。
 昭和四七年には温州みかんの全国生産量が三〇〇万トン時代に突入し、組合扱い数量も九万五、〇〇〇トンの史上最高を記録した。以後温州みかんが生産過剰となり価格が低落することとなった。同四九年一〇月第四代組合長に窪田勝が就任した。同四九年七月に田中健一・武智等がハウスみかんの初出荷を行ったところ、予想以上の好成績で、以来飛躍的な発展につながる記念すべき年となった。同じころ、温州みかんの暴落対策として宮内伊予柑・ネーブルなどの高接ぎ更新が始まった。昭和二一年ころ、下唐川の徳森信夫のみかん園で宮川早生から着色・味ともに早い木が発見されていたが、一般にはまだ知られていなかった。同四九年に南山崎支部がこれの本格的な普及を始め、同五三年に組合全体への普及を図った。昭和五五年八月、「徳森早生」として品種登録を受け、極早生品種として全国的に注目を受けると同時に全国各地で植栽されるようになった。昭和五〇年代はハウスみかん・宮内伊予柑・ネーブルなどの晩柑・極早生みかんへの高接ぎ更新など、積極的に農家の経営刷新を図った。同五九年一〇月、第五代組合長に西岡節夫が就任した。
 組合設立当時は、出資金が三万四、七〇〇円、組合員は三四七人であったが、昭和六〇年現在では出資金が一五億七、四〇〇万円となり、各設備も整い、年間売上高が一六七億円となっている。その内訳を見ると、青果物取扱額が一〇二億円、加工事業が三一億円、資材取扱額が二四億円、撰果事業一〇億円となっている。

 営農指導方針
 温州みかんの全国生産量は昭和五〇年を最高として以後漸減の傾向となり、一九八五(昭和六〇)年では当時の七〇%に、二〇〇〇(平成一二)年現在では三一%まで減少している。これは消費の多様化による年明けイチゴの伸長、伊予柑・甘夏柑などの中晩柑類の伸長、更に輸入オレンジ・グレープフルーツなどの増大により、普通温州みかんの後退減少によるものである。このため、管内の早生・普通温州の生産目標比率を早生温州八に対して普通温州二の割合とし調整を図っている。また、先のとおり消費の多様化・高級化、外国果実の輸入増大など、果樹農業本来にも深刻な問題がある。こうした問題解決への道として、本市内における対策では次の重点事項を掲げて取り組んでいる。
 ①早生温州の他品目への更新。②ハウスみかんの増産と収益の増大対策。③伊予柑の増産。④キウィフルーツの積極増産。⑤特産びわの低木仕立てによる奨励。⑥苗木の導入により園地若返り対策。⑦経営上主力品目の設定と地域別振興計画の樹立。⑧品目別専門部会の育成。⑨農業後継者の育成、壮年就農者の指導、兼業農家の技術指導。⑩基本管理の徹底による単位面積当たり収益の増大。