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伊予市誌

1 町の成り立ち

 一六三六(寛永一三)年に上灘から九右衛門・清兵衛兄弟が来て、大洲藩主の許可をもらって、米湊村の海岸の松林の開拓を始めた。すると近隣の住民が次々とやって来て、家を建て、やがて町らしいものを形作っていった。
 藩主加藤泰興は、この兄弟の功績をほめ灘屋と号し、灘町と呼ぶように言った。また、下吾川村の梢川沿いに小川町という集落があったが、一七四五(延享二)年に湊町と改称された。これが現在の灘町・湊町の本通り筋である。
 藩主泰興はのちに入道となり月窓公と称したが、灘町を郡の中心として、ここに港を造ろうと決心し、町の地割りを決めたり、先の灘屋九右衛門・清兵衛兄弟、吾川屋清兵衛、三谷屋和助、唐川屋九右衛門らを呼んで彼らに商売を始めさせた。

 灘町・湊町の様子
 灘町には上屋敷(灘町広場通り)があって、領主の宿泊する御茶屋をはじめ郡奉行の住居などがあった。中門の外には収納米を貯蔵する倉庫などがあり、表門から北方梢川の間は広場という空地があった。今の広場通りは、その当時の名残りである。灘町本町通り東側には御札場、西側に町番所があり、海岸には浜番所があって、その間に吏員の住宅や綿役所・波戸役所などがあった。
 また、湊町本通り東側には、目付・蔵代官・郡代官の役人の家やその他の非役藩士の家があった。この通りを殿町といった。現在も、この名を残して南殿町・北殿町と言っている。一六三七(寛永一四)年に郡奉行が置かれてから、郡役所には庄屋の中から一人選ばれて役所内に居住していたが、同時に替地町村のいろいろな用事を行うために、「定宿」というものが灘町・湊町にあった。その当時の宿屋として、灘町には、下唐川屋、中村屋、森屋、本郡屋、尾崎屋、米湊屋などがあった。また、湊町には、三秋屋、大平屋、下吾川屋、黒田屋、下三谷屋、上三谷屋、上野屋、宮下屋、八倉屋、麻生屋、上唐川屋、砥部屋などがあった。