データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

二、明治時代以降の商業

 廃藩置県と商業
 一八七一(明治四)年に廃藩置県の布告があり、伊予市域は大洲県となり、後に宇和島県・神山県となった。そして番所の廃止、世襲制、営業の許可制などが解かれて、誰でも各種の営業を行うことが自由となった。また、貨幣制度も変わって、藩札や金・銀・銅の銭、両・匁・分から、円・銭・厘を単位とする十進法の貨幣を使用することになった。政府の殖産興業と相まって、商業は新しい分野を切り拓いて発達の機運を見せてきた。

 交通の発達と商業
 萬安港の拡張・護岸工事が年々実施されるにつれ、帆船の出入りが頻繁に行われ、港外には三津浜三机間の汽船定期航海の寄港があり、貨物輸送に活気を見せてきた。また、陸には一八九六(明治二九)年、松山郡中間に南豫鉄道が開通して汽車が走るようになった。内子及び大洲に通じる国道が貫通して、交通が整い便利になった。その上に、郡の中心としての郡役所をけじめすべての機関が備わったことにより、郡内諸物貨の集散地となった。それにしたがって、商業は次第に繁栄していった。第143図の日本商店名鑑には一八九七(明治三〇)年ころの郡中町の商店名が記されている。

 時勢の推移と商業
 商業の盛衰は、時勢の流れに敏感に反応するものである。明治二〇、三〇年ころから大正年代のころは、遠く中山、上灘・下灘方面から、そして近郊近在の村々から、呉服反物、小間物、雑貨、肥料、日用品、その他を買いに集まる客で賑わった。当時の商売は掛け売りが多く、現金払いで物を買ったり売ったりすることは稀であった。掛け売りは、売った品物・価格・日付など、店に備え付けの大福帳という、和紙を縦に二つ折りにして何十枚も重ね綴じした帳面につけておき、客には通帳に記入して渡しておくのである。そして、盆と節季の年二回、番頭や丁稚がつけで買った人の家へ金を受け取りに行く。これを掛け取りまたは借金取りと言った。八月の盆の借金取りよりも、節季といって年末の借金取りは大変であった。当時の言葉に「掛け倒れ」、「ふみ倒し」というのがあった。農家相手の商いは、いつも現金を持つことがなかったため、掛け売りをしなければならなかった。
 農業経済の浮沈は、商業にそのまま影響した。また、創業以来順調に発展してきた商業も、一九〇一(明治三四)年、世の中の不景気と重役株主間の意見の衝突のため、ついに伊予汽船会社並びに伊予商業銀行が解散することになり、地方の信用を失い商業のうえにも一大頓挫を来たした。
 第一次世界大戦中は好況であったが、一九一八(大正七)年には物価が高騰して、ついに郡中町において米騒動が起こり、当時営業していた酒屋や米屋は民衆の暴行に遭いかなりの被害を被った。その後は反動でしばらく不景気が続き、銀行の凍結などがあって、地方銀行が次々倒産したり大銀行に吸収合併されたりした。
 一九三一(昭和六)年の満州事変から産業が活発となり一時商業も盛んになったが、日支事変(日中戦争)が拡大し、ついに太平洋戦争に突入して、特殊産業すなわち軍需物資の生産活動は盛んになったものの、日用品が徐々に欠乏して需要に応じるだけの商品がなくなった。やがて物資の統制時代が到来したことで、商売は国家統制によって配給された物資を取り扱うだけとなった。

 主たる商店
 一八九七(明治三〇)年における商店のうち主なものは、酒・醤油・酢を商いとする店、呉服店、油屋、薬屋、唐津屋、小間物屋、肥料屋、米屋、材木屋、砥石屋などがあって、藩政時代からみると、商店の種類が多くなってきている(第143図参照)。

 主な取引
 港を控えている郡中は、諸物貨の集散地として、郡中以南の諸物貨は必ず一度はここを経由していた。したがって、取引は付近村落はもとより、東は遠く関西地方から西は九州地方及び広島・下関などと盛んに行われていた。これを表に示すと第126表のとおりである。
 この表によってわかるように、当時の生産物はほとんど大阪向けに送られていたので、価格は主として大阪の経済界の動きに左右されていた。

第126表 仕入れ先及び販路表

第126表 仕入れ先及び販路表