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伊予市誌

二、漁場と漁法

 明治維新後
 一八七八(明治一一)年一月調べの「愛媛県下海面漁場明細書」によると、次のようである。
 同年五月に、第一五大区一四小区伊予郡本郡村井上忠八、同郡森村総代渡辺熊吉、同郡湊町第一六漁区取締藤川久吾の連名で、「鰮地曳大網・手繰小網・蛸縄・磯漁諸魚突営業之義ニ付願」が出されている。これには、第一六漁区ノ内九・一三番漁場ニおいて操業する鰮地曳大網壱帖(長苧網五四メートル、縄網三六〇メートル、海尺一四・四メートル・手縄七二〇メートル)、五か年平均壱か年収穫金高一一五円、船壱艘人数八人乗、磯漁諸魚突ヤス弐本、船兼用人壱人乗、同前漁場及びその漁場区域外沖合において操業する手操(繰)小網壱帖(長一二・二メートル、手縄一八〇メートル、海尺一メートル)船壱艘二人乗第一六・一七各漁区漁場区域を離れ操業する蛸縄壱帖(壺二〇〇、縄二、五二〇メートル)、船兼用人壱人乗、五か年平均収穫高一三円、合計収穫金高一三九円、五等営業税壱か年金五〇銭、これは一八七七(明治一〇)年の布達のとおり、従前営業して来たもので、一八七八(明治一一)年一一月より一八八二(明治一五)年まで五か年間の営業許可鑑札を、下げ渡してくれるようにとの願い書が記載してある。
 また、別に「鰕漕小網・鯛縄営業之義ニ付願」が伊予郡湊町大森徳吉、同町総代加納又五郎・大西藤太衛、第一六漁区取締藤川久吉の連名で愛媛県少書記官赤川<章貢心>助に出され、同年一〇月愛媛県令岩村高俊から、営業鑑札下げ渡しの通知が出されている。
 一八八四(明治一七)年一月には、伊予郡湊町紺田又市、同町漁夫総代加納久吉・大西藤太衛・加納八郎、伊予郡漁業取締藤川久吉・大野金吾連署で「漁業之義願」が、湊町戸長長岡井九左衛の奥書とともに、下浮穴伊豫郡長西川武久に出されている。

  一、鰆刺網壱帖、三人掛使用、此収穫五ヶ年平均一ヶ年金二〇円、此年税金七五銭
    但シ宇摩郡余木村ヨリ新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・下浮穴・伊予・喜多各郡ヲ経テ宇和郡三机浦迄沖合ニ於テ、三月ヨリ六月迄営業
  一、諸魚突ヤス漁
    但シ伊予郡西垣生村ヨリ下浮穴郡串村マデ、沖合并ニ伊予網代・横山網代漁場ニ於テ、一月ヨリ一二月迄営業
   右ハ明治十五年甲第六二号御布達漁業規則ニ随ヒ、従来ノ慣行ヲ以テ営業仕度候間、御許可之上鑑札御下渡被下度、尤モ税金之義ハ、御指令当日ヨリ十日以内ニ上納可仕、依テ連署ヲ以テ此段奉願候也、

 この願い書に見るように、漁場の範囲が広いことに驚く。このころから漁場のことについて争いがしきりに起こってきて、漁業に関する規則が制定されてくる。
 一八八六(明治一九)年二月、下浮穴伊予郡長西川武久から「蛤試育所之儀ニ付伺」を県に提出している。これは伊予郡北黒田村字帰帆から下吾川村及び湊町を経て灘町字西に至る海岸、砂浜一七町一五間(一、八九七メートル)の所へ蛤試育のため投流したいというものである。この願い書とともに提出した図表は第148図のとおりである。この試みは不成功に終わったようである。

愛媛県下海面漁場明細書

愛媛県下海面漁場明細書