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伊予市誌

三、漁業組合の変遷と活動

 第一一水産区組合
 一八八六(明治一九)年漁業組合準則が制定され、それを受けて伊予郡地区は、第一一水産区組合となった。一八八七(明治二〇)年一一月五日の第十一水産区組合水産物変化取調之義ニ付答申」によると、蝦漕漁は一八八四(明治一七)年のころから捕獲を続けているが、なお今後も漁獲増益の見込みがあること。「シヤク」という虫が海底にいることを知り、これを玉網で採取して餌とし、釣魚が盛んになったこと。しかし鯛配縄漁・鰡網漁・蛸配縄漁などは明治一六、七年ころから減少して不漁になったことを、組合頭取藤川久吉・戸長玉井健次郎から愛媛県知事藤村柴朗に報告している。

 伊予郡漁業組合
 一八九三(明治二六)年四月に伊予郡漁業組合頭取藤川久吾から出された文書に「伊予郡漁業組合規約明治二四年一月一一日願、同年三月二七日御認可相成リタル愛媛県指令二第八一〇号、伊予郡漁業組合規約第三六条及ビ第三七条ヲ別紙ノ通り組合会ニ於テ、決定相成り候ニ付、更正仕度候条御認可隆シ被成度、此段奉願候也」とある。愛媛県では一八八九(明治二二)年一一月「漁業組合規則」を制定し、漁業従事者に対し組合を設立し、規約をつくって管轄庁の認可を受けるように指令している。これを受けて一八九一(明治二四)年一月伊予郡漁業組合を設立したことが、この文書から明白である。なお、この文書中に第三六条と第三七条の決定事項というのは、まず第三六条では「本組合慣行漁場ニ対スル新規大網、二〇名以上ニテ使用スル漁具之制限ヲ設クル鯛網ハ、組合部落へ一四個(西垣生へ四個・郡中町大字湊町へ四個・松前村大字浜へ個・北山崎村大字森及ヒ本郡・尾崎三字ヘ二個)鰮袋網ハ部落中へ四個(前記各字へ一個ツゝ)該二種之大網漁具ハ右之通り制限ヲ立ルモノトス、但シ本条制限漁具二種之外、各種之漁具ハ制限ヲ設ケズ」、次に第三七条では「漁業之区域ハ旧慣行之通りニシテ、別段区域ハ設ケズ」となっている。

 小富士漁業組合ヘ
 一九〇〇(明治三三)年小富士漁業組合と改めた。
 一九〇〇(明治三三)年一二月二五日、下げ渡された木札には証票として次のように書かれている。

  第二一六号
  新居郡沖合ヨリ周桑・越智・温泉・喜多郡ヲ経テ西宇和郡机村ニ至ル沖
  合ニ於テ毎年自三月八月迄営業
   鰆刺網営業 証票
               伊予郡北山崎村大字森 渡辺 熊吉
  裏面 愛媛県小富士漁業組合(印)
    明治三十三年十二月廿五日
  第七〇八号
  温泉郡ヨリ喜多郡ニ至ル沖合ニ於テ毎年一月ヨリ十二月迄営業
   鯛配縄営業 証票
               伊予郡郡中町大字湊町 亀岡覚次郎
  裏面 愛媛県小富士漁業組合(印)
     明治卅五年四月十五日

 右二つの証票写しに書かれている小富士漁業組合は、伊予・温泉・風早三郡の連合によって設立されたものである。

 湊町漁業組合
 一九〇三(明治三六)年に湊町漁業組合と改名した。同年六月の文書「慣行事実陳述書」は湊町漁業組合理事三ツ井浅吉・加納久吉・加納又吉の連署で出されている。その概要は「当郡中町大字湊町の漁業は、昔小川町と称したころから継続するもので、寛永一二(一六三五)年旧松山大洲両藩領分の替地の後は、旧大洲藩から現今称する所の伊予網代・横山網代及び沖合いで、引き続き漁業が許され、藩主の乗り船が沖合通行のときは、漕ぎ船御用を勤めてきた。したがって大洲領分中、島浦々において地曳網漁業が許され、沖合いでは二神下網代・ヲバ網代・ハバリ網代・由利島沖・由利下網代を始め、ミナセ下網代・ホゝロセ網代などは、湊町漁業者の発見した所で、今日まで平穏に営業してきた。以上述べたような慣行によって、現在も漁業に従事している事実を陳述する」。
 北山崎村漁業組合からも、「慣行事実陳述書」が出されている(文書略)。
 当時湊町漁業組合の会員数は一三五人、最近一か年分の経費は一一七円四七銭五厘であった。
 一九〇四(明治三七)年二月、「愛媛県漁業取締規則の改正」があり、新しく漁業種類の取締規則を定めた。
 一九〇五(明治三八)年六月における「現在漁具調」を、湊町漁業組合から第133表のとおり報告している。
 一九〇六(明治三九)年一〇月、湊町漁業組合から出された「調書」には、漁業の種類・漁期・漁場・漁獲高が、次のように記載されている。

  網漁業
  鰮地曳網 湊町二三円・北山崎一四円 魚地曳網 湊町一 漁獲高七〇円
  このしろ繰網 湊町一 漁獲高五〇円 漁期八・九・一〇月 二・三月 漁場 地先一里以内、伊予漁場
  このしろ巻網 湊町一 漁獲高四〇円 漁期前に同じ 漁場前に伺じ
  このしろ追掛網 北山崎一 漁獲高二五円 漁期このしろ繰網に同じ 漁場同じ
  鰡敷網  湊町一 漁獲高八〇円 漁期一一月ヨリ三月ニ至ル 漁場 伊予・横山漁場
  蝦漕網  湊町一〇八円・北山崎一〇円 漁獲高湊町二、一六〇円・北山崎二〇〇円 漁期年中 漁場 同前
  手繰網(ウタセ)湊町五 漁獲高二五円 漁期七月ヨリ一二月ニ至ル 漁期 同前
  五智手網 湊町一 漁獲高二〇円 漁期 年中 漁場 同前
  鰈立網  北山崎三 漁獲高九〇円 漁期 年中
  鰡立網  湊町三 漁獲高六〇円 漁期 一一月ヨリ三月ニ至ル 漁場 同前
  ナマコ桁網 湊町一・北山崎二 漁獲高湊町五円・北山崎二〇円 漁期 二月ヨリ四月マデ 漁場 同前
  鉾突   湊町三・北山崎二 アワビ湊町二円・北山崎二円 サザエ湊町五円・北山崎五円 ナマコ各二円 雑魚各二円
  蛸縄   湊町五円・北山崎五円 漁獲高各五〇円 漁期四月ヨリ八月ニ至ル 漁場 同前
  配縄   湊町三〇円・北山崎なし 漁獲物鯛・チヌ・鱧・アナゴ 漁獲高四七〇円
  一本釣  湊町一〇円 漁獲高一〇〇円 漁獲物ぐち・こち・たちうお・すずき
  採藻場
   肥料藻 湊町七円、北山崎六〇円
  年々入札に対し、入札金は部落の公共費に供する。

 右の記載事項によって、当時の漁業の状況がよくわかる(以上、明治維新後の漁業は愛媛県立図書館所蔵の資料による)。
 一九〇九(明治四二)年に編さんされた『郡中町郷土誌』には漁業戸数一〇九戸、人口五五七人、漁具は曳網・刺網・繰り網を用いた。また、『北山崎村郷土誌』によると、漁業戸数四〇戸、漁民三一五人、漁具の種類はさわら流し網・いかさし網・ごち網・えびこぎ網と記されている。
 一九一〇(明治四三)年一月、垣生村今出・松前村浜・郡中町湊町・北山崎村・上灘村高野川・同村上灘・同村高岸・下灘村下灘の各漁業組合長連署のもとに、伊予漁業の出願方に当を得ないものがあったということで、協定書を作った。それには、漁場出願中のものは撤回し、各漁業組合の共同専用に変更すること、専用漁場の区域は伊予漁場を合併し、その区域内の沿岸各漁場の区域線を取り除くこと、操業方法は別に定めるなどが記載されてある(愛媛県立図書館所蔵資料による)。

 鯨塔
 一九〇九(明治四二)の二月ころから、一頭の大鯨が郡中沖を泳ぎ回って潮を吹く様を初めて目のあたりに見た湊町の漁師たちは、この大鯨を捕獲することを話し合い、三月一日決行してついに大鯨を仕止めた。当時湊町漁業組合理事をしていた鎌倉長太郎が、そのときの捕鯨の状況を次のように書き残している。

   三月廿一日午前八時ヨリ仕度ヲ致シ、ソレヨリ漁船八艘ニ五拾人乗入、内十四艘ニハ馬間(関)(今ノ下関)ノ捕鯨会社ヨリ雇ノ砲主一人ノリ込、森ノハナ方ニ鯨見ユルト押掛サンジ、鯨ノ様子ヲ見テ、我カ沖合マテ附テ一パツハナシ、其玉ハ鯨ヲカスリ、ソレヨリ鯨塩フク事ナク、何レニ行タカ見ラレナイ、ソノ内ニ又近海デ塩フキ揚、ソレト八艘ノ船デ取巻、潮ニソレテ松前川口ノ五六丁沖合ニ止リ、此トキ砲主ネライヲ附テ又一パツ、程ヨク明(命)中致シ、ソレガタメ鯨ハ体ヲ壱弐間程トビ揚リ、ソレモリヲウテト号令ヲ掛レ共、ダレ一人モリ打ツ者無ク、ソノ内砲主ハ直ニヒ腹ヲツキ抜キ、又後ヨリ弐丁(二個)ノモリヲウチイレニテ、鯨ハ海ノソコエ(へ)シズマリ、直ニタレカ腹縄掛ニ行ク者無カト申セド、誰一人行者無シ、ソノトキ此レ行者ニハ正金拾円ヤルト申セ共、前同様トキニ砲主直ニ水レン入、腹縄掛ケ又第二ノ腹縄掛ク、ソノ比陸ノ見物人ハ幾千人共ワカタヌ人、見物船幾艘ノノリ込ミノ人一同ニ万歳、コヱ山ヲモクズレルバカリカト思ヒ、其内又海岸ノ船アルタキ、又松前村ヨリ船イク拾艘ニ人山ノゴトクノリ込、
   寄合イ実ニ目ノヲドロクバカリ、ソレヨリ鯨(ヲ)漁船弐艘ノ間へ約リ、郡中湊町海岸エ(へ)コギ附ケ、船ノ者ハ他者ニハ見セヌトセイスレ共聞カズ、四方八方ヨリ船ヲコギ付ケ、実ニソノトキノコンザツハ、筆ニツクセヌ位、ソノ内夜ニ入卜、戎社浜ヱ矢ライヲクミ置ヲハリ、掛小家作リ、翌日朝八時比ヨリ牛二頭ニ人数百人右引揚、又ソノ日ハ雨フリニモ拘不見物人数千人押掛ケ所、拾時比水戸売り・・・・・

 この後が切れていて、見付からないのは残念である。古老の話によると、第151図のように周りをむしろで囲い、入場料をとって、三日間は毎日大勢の見物客で大変なにぎわいであった。そのうち鯨を解体し一部は食肉とし、大部分は上浜の端の丘に埋めて供養した。その後沖合いには魚が全くいなくなった。漁夫たちは困ってしまい、だれいうとなくこれは鯨のたたりである、早速鯨の供養をしようということになった。そして、丁度一年後の一九一〇(明治四三)年三月二〇日、湊町漁業組合の中で第152図のような「克鯨一字一石塔」と刻んだ石塔を建て、鯨を丁重に供養した。今も湊神社前の広場にあって、人々から供養されている。これと全く同じ石塔が、海岸沿いに森へ通ずる道路を行くと、尾崎の浜に建てられている。これも同じ思いで供養したものであろう。

第149図 伊豫網代

第149図 伊豫網代


第150図 「慣行事実陳述書」に書かれた網代

第150図 「慣行事実陳述書」に書かれた網代


第133表 明治三十八年六月一日現在漁具調

第133表 明治三十八年六月一日現在漁具調