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中山町誌

四、 縄文中期

 縄文時代の内で縄文土器文化中一番の代表とされるのが、中期の土器である。そして日本列島全域が一つの文化の最盛期に達した時期といえるが、愛媛県では縄文前期中葉から縄文中期全般にかけて、他と比べると貧弱な遺跡が県内全域に散在し、わずかな遺物が知られる程度である。松山平野では松山市上野町谷田2遺跡や古照遺跡で採集された遺物が挙げられる。その他県下での縄文中期の遺跡は、越智郡波方町の水崎・江口の両遺跡や伯方町の熊口遺跡が著名である。両遺跡では漁撈用の石錘が出土しており、共に海岸線近くに集落が形成されていたと推測される。それ以前の集落遺構は海退期の開析作用によって、流失したと推測される。
 だがこの中期は、日本列島全域で深鉢・壺形・把手付など、形態的にも変化に富むが、それにも増して文様・装飾も豪快で、しかも華麗な、世界に類例のない優品な土器が作られた。このような原始芸術発展の背後には、この時期の安定した人々の生活環境が窺える。
 前期の散村形態の集落から、広い河岸段丘上の台地での環状の集落形態へと発展し、一集落の人口も増加したことにより、それまでの個人による狩猟や漁撈から、集団による狩猟・漁携に変化した。それが獲物の増加につながり、食生活の安定が文化の向上を生み出したわけである。貯蔵用具として有孔鍔付土器・壺形土器の発生、澱粉製造用具の石皿・磨石の増加は、この時代の人々の食生活において、前代以上に植物性食糧への依存を多くしたことを示している。打製の土掘具と推測される石器は、野性の球根類やイモ類などの食糧採集用具であったのか、イモ類などを植え付けて収穫を行う栽培に利用されたのか、それとも両用だったのか今後の大きな課題である。写真にみる土器は勝坂3式把手付深鉢で、勝坂式土器文化後半に長野・山梨・関東西南部で発見された土器であり、藤森栄一はイモなどの蒸器であると想定している。