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中山町誌

一、 米と金属器の世紀

 縄文時代の晩期には、水稲栽培による稲作が開始されたことを実証する遺跡が各地で報告されているが、後続する弥生時代は、食糧を採集する生活から、水田に種をまき食糧生産の生活に移行した稲作を中心とする社会である。生産に、また生活に、金属器(鉄・青銅)が導入された時代でもある。そして、まとまりのない個々の原始的な集団が次第に集約され、社会的な分業の世界から支配する者と支配される者とに分かれ始め、日本列島が国家的統一への道を歩み始めた時代でもある。
 弥生時代は、BC三世紀からAD三世紀の約六〇〇年間であり、BC三~二世紀を前期、BC一世紀~AD一世紀間を中期、AD二~三世紀を後期とする三期に分けられている。
 アジア大陸の先進国(中国・西南アジア)ですら、数千年かけて段階的に成立した国家建設が、日本列島では、西暦紀元前後の数百年で成立していったのである。
 特に、明治一七年(一八八四)に発見された東京都弥生町の遺跡が有名になったので、十数年後その名を取って「弥生式土器」と名付けられた。
 そこで弥生時代を「日本で食生活を食糧生産に基礎をおく生活が始まってから、前方後円墳が出現するまでの時代」と定義し、その時代の文化を「弥生文化」といい、この間に作られた土器を「弥生式土器」と呼称している。
 縄文時代も終りに近づいた頃から世界的な海退が始まり、洪積台地の麓に湾入していた海は干あがって、海岸平野が形成され、旧海岸での砂の堆積は、川の流れをせき止めることになり、各地で後背湿地が形成された。初期の水稲栽培の耕地として、後背湿地の周辺部に水と耕地がセット出来るために、人々の生活の場は、耕作地を前面にする台地端上に占地し、住居への出入口は耕作地に面する位置に設定された。
 稲作の伝播は大陸に最も近い北九州地方で始まり、特に遠賀川流域での文化が指標とされるが、この地で用いられた遠賀川式土器(前期弥生式土器の別称)は、誕生して二、三世代の内に、海岸伝いに東進し六〇〇キロメートルも隔った地に新しい生活の場を求め、稲作を広めていった。県内での前期初頭の遺跡は、大洲市慶雲寺遺跡、北宇和郡三間町三間高遺跡、松山市堀江・文京Ⅳ遺跡や伯方町叶浦遺跡などに分布しており、稲作文化の伝播の流れが偲ばれる。
 弥生時代前期の中頃から後半にかけて、県内で稲作を主とする集落の形成は、東・中・南予にまたがり、内陸部への開発が、小河川の開析作用により形成された谷間にも進み、谷田が開墾された。だが、この時期の弥生人たちにとって、食用植物の採集や魚貝類・鳥獣類を捕らえる事も重要な仕事であった。
 これらの集落の形成は、発掘例の多い松山平野に例をとれば、祝谷七谷の流域・久万川流域・石手川流域・小野川流域・御坂川流域に集中していることが報告されている。
 松山市久米の洪積台地に形成された来住Ⅴ遺跡では、集落の周囲に環濠をめぐらせ、集落の安全を図った遺構が検出されている。また集落での住居遺構は、文京遺跡や北久米遺跡で円形の竪穴式住居(半地下式)址が検出されている。上浮穴郡久万町宮前遺跡や松山市上野遺跡で縄文時代後期にみられる、方形・長方形の竪穴式住居址と異なるこの住居構造の変化は、農耕生活に伴う変化とみるべきであろう。このことは北久米遺跡や久米窪田Ⅳ遺跡等における竪穴式倉庫址からも立証される。墳墓は松山市東石井小学校遺跡の壺棺墓二基と土坑墓一基、松山市土壇原遺跡では壺棺三基、同西野町西野Ⅲ遺跡の土坑墓六九基がある。
 墳墓の内、被葬者を裸葬したとみられる土坑墓に対して、被葬者を棺槨に保護した後に埋葬した壺棺による埋葬方法がとられている場合があり、他に、西野Ⅵ遺跡による土坑墓においては、周囲に石を積むものや四隅に石詰め(木棺)したり、床面に小石(木棺)を置くものがあり、これら三形態が報告されている。
 いまこれらの埋葬方法の内、被葬者=埋葬主体については、裸葬・壺棺葬・木棺葬がとられているが、土坑の周囲に石積みを施した被葬者の外槨を作るという格差が生じている。だが埋葬の立地は前者は平野部で、後者は丘陵部である。いずれも並列させた埋葬で、農耕を主産業とする集落とされる。ちなみに軍団墓としての墳墓は、酋長を中心に円形に造墓されている。