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中山町誌

三、 弥生中期の集落

 この時代は、人々が積極的に開墾を始め、いっそう水稲栽培が発展し普及した時代である。前期には、地下水位が低く耕作出来なかった土地に、小規模ではあるが土木工事をして水を引き入れる水路を作り、畦には杭や矢板を打ち込むなどして丹精を込めた水田が作られた。このことは沼沢地から乾燥地への進展であり、水田地と乾田地(水を落とした耕地)を繰り返すことによる耕作地の地力が増加したことを意味する。この時点で、農耕生活での水稲栽培による経済力は、水田への灌漑用水路等の農業土木工事によって急激に向上した。この農耕地の開発は、人口の増加と比例して増大し、膨大な労働力が必要となった。集落規模も時代と共に大規模となり、生活立地は生産地化(水田化)の困難な台地上に形成される傾向が強くなった。
 中期の遺跡は全県的に分布するが、特に遺跡が集中するのは各平野部をはじめ、大洲盆地・宇和盆地及び、三間町・広見町の山間部などであり、津島町及び南宇和郡においても小規模な集落が認められている。