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中山町誌

九、 後期の集落

 中期の遺跡を中心に、集落は拡張されて、一集落の単位も数十棟以上の規模へと発展しており、そこに一つの村落が形成され、共同的な墳墓が集落単位に構成された。
 住居は竪穴式であるが、後期では床面の形態は丸形から隅丸の長方形へと変化し、さらに隅丸方形へと移行している。床形の変化と同時に住居の床面積も小規模化へと移行している。
 この時期は中国の「三国志」(魏・蜀・呉)の時代であり、その内の魏志の東夷伝の中に倭人伝がある。その中には卑弥呼の国「邪馬台国」に至る沿道の国々や、国の支配圏及び人々の生活の様子が記述されている。この記述から、既に国家的支配や経済的な物流関係が形成されていたことが理解される。
 これらの国家的支配の背景は、農耕生産の向上によるところが多い。小規模化する住居プランに対して、日常生活に使用される什器もまた小型化し、ひときわ大型の複合口縁を有する卵形の体部をもつ壺形土器が出現する。
 本器は生活什器ではなく、種籾を備蓄する容器として作られた土器である。
 中期後半の凹線文が後期の中葉頃まで残っているが、次第に複合口縁の壺形土器が一般化する一方で、小型の壺や甕形土器に叩き技法による成形が盛行し、無文化が著しくなる。さらに後期後半期に出現をみた供献用の大形特殊器台もある。この器台が、墓前祭祀に使用されたものの内、墳墓は方形か円形の台状墓でその周辺には溝をめぐらせた(周溝)墓に供献例が多くみられる。一般人を埋葬する土坑墓とは格段の違いがみられる。しかし、いずれも集落の外域で構成されている。小型の合口壺棺が住居内及び周辺部に埋葬される風習がみられる。これらはみな幼児や嬰児を対象とするものである。
 この時期になると、鉄器の使用が増加したとみえ、石器の出土数が極端に減少してくる。入れかわりのように、各地で青銅器の出土が盛んになってくる。松山市平井町で出土した石戈は、銅戈を模倣したものであり、松山市上野町出土の鉄剣形石剣が鉄剣を模倣して製作されたように、金属器に対し強力にあこがれ、金属器の代用として作られたのである。