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中山町誌

八、 中期古墳の分布

 古墳時代中期は五世紀を中心とし、この時期の古墳を中期古墳と呼んでいる。だが本県では中期古墳の調査例は少なく、東予では新居浜市金子山、西条市祭ヶ岡、小松町大日裏山一号、東予市片山・二番山、朝倉村樹之本・根上がり松、今治市久保山の各古墳がある程度である。今治市の久保山古墳は前方後円墳であったが、平成元年宅地造成により消滅した。
 金子山古墳は直径二五メートル、墳丘高五メートルの円墳で、裾部に埴輪(円・朝顔)をめぐらし、内槨は河原石による竪穴式石室をもつ。副葬品として画文帯神獣鏡と鈴鏡、金銅製長鎮付耳飾り、腕釧(腕輪)・勾玉・管玉・棗玉・滑石製臼玉、剣、直刀などが出土している。
 祭ヶ岡古墳は箱形石棺を内槨とする内墳で、内部には須恵器・直刀・剣・鉄鏃・鋤先・鑿・鉄斧・鉋を副葬していた。
 大日裏山古墳は四基あり、一号からは内行花文鏡が発見され、四号からは珠文鏡・銀装方頭太刀も発見されているが、正式な発掘調査でないため不明な点が多い。
 片山三号墳では、銅鏃・鉄鏃・鉄斧・鑿形鉄器・鉄剣が二号室に付随する竪穴式石室から出土している。
 樹之本・根上がり松の大型古墳は朝倉村の平地部にあり、後者からは昭和五五年に四神四獣鏡と管玉・ガラス小玉が発見されている。この古墳は前方後円墳と推測されている。前者は、長く帆立貝式の前方後円墳と呼称されていた。墳裾部の試掘調査により、長円墳であり周囲を二重に周溝がめぐらされていたことが分かった。石室は明治四一年に調査されたが、内部主体等は不明である。出土遺物に「長相思母常忘楽未央」の銘文がある径二三・七センチメートルの獣帯鏡及び管玉・勾玉等がある。墳裾部試掘溝から衣蓋形の円筒・朝顔形埴輪・武人埴輪や木器類が出土している。
 久保山古墳(お茶池上前方後円墳)は全長四九メートル、内部主体は約三・五メートルの竪穴式石室である。副葬品には珠文鏡・神獣鏡片・鉄剣がある。墳丘部で朝顔形・家形埴輪片が採集されている。
 北条市の浅海地区に小竹八号墳がある。二二メートルの丘経をもち、箱形石棺を内部主体とする三基の石棺がある。内部には鉄剣・直刀・鉄斧・鉄鎌が副葬されていたと伝えられている。
 温泉郡中島町の長師の中山と小浜のオクシゴエに花崗岩の箱形石棺をもつ古墳がある。オクシゴエには若干の封土がみられ墳丘が残されている。遺物として鉄剣・銅釧・勾玉・管玉・ガラス小玉・勾玉(滑石)が多数出土した。中山古墳では勾玉・管玉・鉄剣・直刀が出土しており、いずれも五世紀半前後の古墳とみられている。
 松山平野における中期古墳には、内部主体が箱形石棺である勝岡町高月山・清水山・のぼり尾古墳などがある。高月山の三基のうち一基は長方墳であり、遺物には鍬先・鉄斧・鎌・土師器等が出土して五世紀初頭のものとされている。
 松山市谷町の蓮華寺境内では、安山岩製の舟形石棺の身部が腰掛石として利用されている。本堂脇に一部墳丘が遺存しており、本堂建立によって出土したものと考えられる。本石棺は近畿地方に多く搬出されており、往時の文化交流関係を知る上で重要な遺物である。
 松山西部では、湊山町に鶴ヶ峠古墳、北山町では徳久山古墳、朝美町の大峰ケ台古墳に岩子山古墳、津田町の弁天山丘陵に弁天山・津田山古墳などが分布している。
 鶴ケ峠古墳は円墳で、周溝を持つ横穴式石室を内部主体とする五世紀後半期のものである。周溝より人物・動物・蓋形・家形・盾形・甲冑の形象埴輪が出土している。
 岩子山古墳では内部主体は本棺直葬で、素環頭太刀や人物・朝顔埴輪が出土している。
 松山平野東部には、石手川の右岸に位置する低位丘陵の東野洪積台地に、周溝をめぐらす直径一〇メートル前後の群集墳がある。主体部は箱形石棺で床面に玉石を持つものもあり、周溝内から須恵器が出土した。これらの遺物から五世紀末と判断される。
 同桑原町に経石山前方後円墳があり、墳形から中期古墳とされているが、未だ調査されていない。
 松山市平井町に、直径三〇メートルの円墳があり観音寺山古墳と呼ばれている。墳丘部で家形埴輪、墳裾部で円筒形・朝顔形片が採集されているが、内部は未調査のため不明である。埴輪の成形やタガの様相から中期古墳と推定される。
 松山平野南部では、御坂川(久谷川)と砥部川により開折された標高六〇メートル前後の河岸段丘の土壇原(松山市上野町)に、中期古墳が二〇数基検出されているが、その内、五号墳は方墳(一辺一五メートル)で内部主体は中央に並列された小形の川石を積む竪穴式石室であった。一号石室からは直刀・鉄剣・珠玉鏡が出土している。その他の古墳は円墳か方墳であるが、主体部を封土し、周溝をめぐらしている。なかでも緑泥片岩を使った箱形石棺を内部主体とする一〇号方墳が卓越していた。これらの古墳では二~三の鉄剣が副葬されていた。鉄剣はいずれも長剣で他地域の出土遺物とは異なる遺物である。東端部では、二基の大型円筒埴輪棺が出土している。
 松山平野の伊予市地区でも中期古墳が発見されている。宮下の伊曽能神社南丘陵部に吹上の森一・二号墳がある。内部主体は不明であるが、発掘中に、方格四獣文鏡・筒形銅器・紡錘車・鉄剣等が発見されている。二号墳も内部主体は不明であるが、墳裾部で円筒埴輪がめぐらされ、前期後半かBC五世紀初頭の古墳とみられている。
 伊予市上野、行道山の標高三〇〇メートルの丘陵に、直径が三〇メートルの桜山古墳がある。発掘時に円筒・朝顔形埴輪の他に家形・盾形・甲形埴輪が発見されている。この遺物から五世紀初頭の古墳とみられている。なお宮下地区の標高一七〇メートル付近に、小円墳が群集して営造されている。その内の一基に猪窪古墳がある。内部主体は緑泥片岩による箱形石棺で、一八メートルの円墳である。石棺の天井石は一枚岩で、両木口には縄掛け突起が作り出されている。石棺を被覆していた青灰色粘土中から、鉄剣六口・刀子・挾具・鉄鏃・鉄鎌・鉄鋸・鉄斧・塹・鑿・鍬先が出土しており、県内に類例のない出土遺物の組合せから、調査報告書では鍛冶集団の統括者ではないかと報告されている。ちなみに古墳に近い伊曽能神社の祭神には、鍛冶の神である「天児屋根命」が祭祠されている。
 南予における中期の古墳は前期同様未確認であり、今後の分布調査が必要であろう。