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中山町誌

一一、 後期古墳

 中期の後半になると、朝鮮半島における横穴式石室を内槨とする墓制が取り入れられ、追葬の困難な竪穴式石室は次第に姿を消したが、箱形石棺は以前と同様に踏襲されている。追葬が可能な横穴式石室は、個人墓から家族墓と発展し、追葬を容易にする広い玄室や入口が設けられている。横穴式石室は盛土(高塚)を省力化する効果があった。
 後期における前方後円墳は、そのほとんどが平野部の集落における首長墓として営造された。宇摩平野では経ヶ岡古墳があり、新居浜市・西条市・東予市は未発見、今治平野では菜切谷古墳・須賀神社の大塚・大西平野の衣黒山古墳などが発見された。松山平野では、比較的大規模な前方後円墳や円墳が多く、六世紀になり今治平野から松山平野に政治・経済・文化の中心が再び移動したことを立証している。
 昭和四七年に調査後開発された松山市畑寺二丁目の三島神社古墳(前方後円墳、全長四五・二メートル)は、内部主体が方袖式の横穴式石室で、羨道部から後円部の墳裾に至る見事な暗渠排水溝が設けられていた。墳丘はすべて盛土で、主体部周辺にのみ入念な版築がみられた。前方部には円筒・朝顔型の埴輪三三基が一列に配置されていた。石室内は盗掘されていたが、須恵器・管玉・ガラス玉・臼玉・銀製空玉・鉄地金銅張帯金具・滑石製有孔円板(鏡の代用品)が出土した。
 本墳は畿内型古墳である。六世紀初頭の古墳で、既に大和政権の側についていたことを物語っている。
 前方後円墳は次第に桑原台地から久米洪積台地に向かい、釜神社古墳・東山神社古墳・二つ塚古墳・たんち山古墳などがあり、小野川と重信川流域では、波賀部神社古墳・椿神社(円)古墳・星ノ岡長沢古墳・白山神社古墳と分布が広がっており、内部主体は横穴式石室であろうと思われる。
 松山南部での前方後円墳は、伊予市三谷の客池古墳や伊予神社等の古墳群が首長墳と推測される。
 南予では宇和町山田にある小森古墳があげられるが、前方後円墳か円墳かは不明である。版築が認められ、円筒埴輪片が採集されているから古墳であることは間違いないようで、古墳の立地と規模から宇和盆地を統治した首長の墳墓と推測される。