データベース『えひめの記憶』
中山町誌
第一節 古代の郷土
古代の中山町については、その姿を伝える史料がほとんど残されていない。従ってここでは、大きな時代の動きと郷土との関係の概略を述べるにとどめざるを得ない。
大化元年(六四五)、中大兄皇子らの手によって断行された大化改新は、それまで専制的な権力をふるっていた蘇我一族を打倒する政治的クーデターであると同時に、天皇家を中心にして新しい中央集権国家を作ろうとする試みの出発点でもあった。新しい国家体制作りは、はじめは天智天皇(中大兄皇子)によって、壬申の乱後は天武天皇やその皇后であった持統天皇によって進められ、文武天皇の大宝元年(七〇一)における大宝律令の成立によって一応の完成を見た。
この律令体制によって全国は五畿・七道に分けられ、伊予国はその内の南海道に属することになった。そして伊予国内にはその下部単位として一三郡が置かれ、郡ごとに郡司が任命されて統治にあたった。一三郡というのは、宇麻(摩)・神野(のち新居に改める)・周敷・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・伊予・浮穴・宇和の各郡で、後に宇和郡から喜多郡が分郡されて一四郡になった。このうち越智郡には国府が置かれ、その近くには国分寺・国分尼寺が建立された。現在、伊予郡に属している中山町域は、当時は浮穴郡に属していたものと思われる。明確な史料があるわけではないが、中世や近世の郡域からの推測である。
近世(江戸時代)においては、現在の町内四大字のうち、出淵・佐礼谷・栗田が浮穴郡に、中山が喜多郡に属していたことがはっきりしているが、後述するように、一五世紀頃の信憑性の高い史料に中山が浮穴郡と明記されているので、おそらく、中世以前においては四地域とも浮穴郡に属していたものと考えられるのである。
当時の浮穴郡は、現在の上浮穴郡のほかに中山町、砥部町、広田村、双海町、伊予市の一部、松山市の一部、重信町の一部、川内町の一部を含む広大な領域を含んでいた。しかし、そのすべてが郡域としてきちんと把握されていたわけではなく、重信川の流域と、その南に広がる山間部一帯が漠然と浮穴郡とされていたものであろう。
平安時代の初め頃に「倭名類聚抄」という書物が書かれ、そこにはこの時点での各国各郡の郷名が列挙されているが、それによると浮穴郡には、井門・拝志・荏原・出部の四郷があったとされている。井門郷は松山市井門町付近、拝志郷は重信町拝志付近、荏原郷は松山市恵原付近で間違いないであろうが、出部郷については、現在その地名が残っていないので諸説がある。ひとつは、文字の類似から中山町出淵付近とする考え方であり、もうひとつは、出部の「出」を「土」の誤記と考えて土部=砥部とする考え方である。どちらも推測の域を出るものではないが、他の三郷との関連から考えれば後者の可能性が高そうである。いずれにしても、平安時代初期の時点では、浮穴郡といっても、重信川流域の平地部が中心であって、その南に広がる広大な山間部はまだ律令政治機構の対象地としてはとらえられていなかったということであろう。
律令制の動揺とともに、伊予国は海賊の活動する舞台となった。とくに前伊予掾(国司の三等官)藤原純友は、天慶二年(九三九)に反乱をおこし、伊予ばかりではなく、讃岐(香川県)、周防(山口県)、土佐(高知県)を侵略し、さらに大宰府にまで進出した。律令政府は、小野好古・橘遠保らの軍勢を派遣し、伊予国内の越智氏などの協力も得て同四年(九四一)にこれを鎮圧した。
平安時代の後期になると、国内の各地に新たに寄進地系荘園と呼ばれる貴族や寺社の私領が成立し、一方では河野氏、新居氏などの武士団が形成され始めた。両氏はともに越智氏の流れをくむと伝えているが、河野氏は風早郡(北条市)を、新居氏は越智郡や新居郡を勢力範囲として互いに勢力を競った。こうして、新しい土地制度としての荘園、新しい在地勢力としての武士団とともに、中世という新しい時代の幕が開き始めるのである。