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中山町誌

一、 二本の石柱

 源平の合戦を経て鎌倉幕府が成立し、時代は武士の世へと推移していくが、この時期になっても郷土のことはなかなか史料上にははっきりと現われてこない。源平合戦にまつわる山吹御前や蒲冠者源範頼の話が伝えられているが、これらは歴史的事実というよりも後世にできあがった伝承とでもいうべきものであって、歴史とはまた別の扱いをしなければならないものである。
 この時代に伊予国では新たに守護・地頭が設置されて鎌倉幕府の支配が及ぶようになり、一方では、源平合戦に功績のあった風早郡(北条市)出身の豪族河野氏が大きな勢力を持つようになった。河野氏は承久の乱(一二二一年)に後鳥羽上皇に味方して没落したが、一三世紀の元寇の際に河野通有が活躍して勢力を取り戻した。このような伊予国の大きな社会変動に私たちの郷土がどのようにかかわったのかはよくわからないが、わずかに河野氏の歴史を書いた「予章記」という記録に、通有の孫通時という人物に関して、次のような記述が見られる。「建武年中与州大将として一族等を相催して国中の凶徒を退治して、当国玉生庄并びに由並中山等の所々を給わる」。つまり通時は、鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇による建武の新政権ができた頃に、伊予国内の「凶徒鎮圧」に功績があったので玉生荘(松前町昌農内周辺)とともに由並中山等の所領を与えられたというのである。通時が属したのが、後醍醐天皇方なのか、それとも足利尊氏方なのかなどの肝心なことがわからないのは残念であるが、この頃中山地域にも河野氏の力が及び始めたことは間違いないであろう。
 このように中世に関係する史料が乏しい中で、永木の藤縄の森三島神社に残されている石鳥居遺構、いわゆる一本鳥居は、貴重な文化財であると同時に中世中山の姿を伝える歴史史料でもある。この石鳥居は、昭和四五年に県指定文化財となって以来広く県内に知られるようになったが、ここで改めて銘文を確認しておくことにする。なお銘文は、すでに風化が進んで読みにくくなっているが、読み方については正岡健夫『愛媛県金石史』(愛媛県文化財保護協会、一九六五年)所収の拓本を参考にした。

 當国守護河野之通之御代也
 謹奉立鳥居支事(注1)
 當所地頭合田通基大願主梅原沙弥道興(注2)
 大工越智氏範近中山名主御百姓達各各〈白・敬〉
 時(注3)應玖年〈次・歳〉壬午八月念(注4)二日
   (注1)「事」の異字体
   (注2)摩滅によって読みづらくなっていて、「與」と読んでいる研究者もあるが、『愛媛県金石文』の興の読みが正しいと思われる。
   (注3)「時」の異字体
   (注4)二十二のこと

 ところで、この石鳥居には相棒がある。長浜町住吉神社境内に手洗鉢として残されている石柱がそれである。この石柱は長らく手洗鉢として使われてきたが、形状からして本来は鳥居の一部であったことは明らかで、大きさ、材質等も藤縄の森三島神社のそれとそっくりである。ただ永木の三島神社の鳥居の石柱の片方が、縁もゆかりもなさそうなはるか遠隔地の長浜に所在していることはどう考えても不可思議で、首をかしげざるをえない。このことについて江戸時代の大洲藩の地誌「大洲旧記」には、大洲藩主加藤泰興が、藤縄の森三島神社の鳥居の石柱の一本を江戸に運ばせるつもりで長浜まで持ち出したと記されている。これが案外真相を伝えているのかもしれない。いずれにしても、文化財の残り方としては非常に興味深く、両石柱を一対のものとして保存する必要があろう。
 その住吉神社の石柱にも銘文が施されている。ただこちらのほうが一層風化が進んでいてはなはだ読みづらい。同じく正岡氏の前掲書を参考にし、一部実地調査による修正を加えて読みを示しておくと次のようになろう。

 代也
 大願主中山住人藤原之朝臣栗田
 □本願主栗田能登守
 □村御百姓達各各〈白・敬〉
   當施主采木苻(注1)生大夫
   大工□□良右衛門
 事□永八年〈□・辛〉拾一月念二日
     (注1)「府」の異字体

 肝心の年号がはっきりしないが、正岡氏は「すなおに見ると寛の様に見えるが、文体よりみると應永年号と見ても差支えない様である」と述べておられる(寛永八年の干支は辛未、応永八年は辛巳で、ともに「辛」がつき、しかもこの「辛」字はかろうじて読みとれるが、干支のほうが「未」なのか「巳」なのかほとんど判読できない)。銘文の文言も類似しているところが多々あるし、永木の三島神社のそれと関連づけて応永八年と読んで差し支えないのではないだろうか。
 両石柱の銘文を総合することによって明らかになるのは次のような事実である。まず、応永八年(一四〇一)一一月に中山地域の有力者らしき栗田氏らが中心になり、百姓たちもこれに協力して石鳥居の石柱一本を寄進した。ついで翌九年八月には、地頭合田通基や梅原沙弥道興らが中心になり、これに名主百姓らが協力してもう一本の石柱を寄進して石鳥居が完成した。こうして今から約六〇〇年ほど前の室町時代の初め頃に、中山地域に合田、梅原、栗田などの有力な在地領主と、名主百姓と呼ばれる農民たちによって一つの村落社会が作られていたことがわかるのである。