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中山町誌

二、 河野氏の時代

 応永八、九年といえば、六〇年の長きにわたって日本全国を巻き込んだ南北朝の動乱がやっと終わった直後である。そしてその時期は、伊予国全体から見れば永木の三島神社のほうの銘文が記すように、河野通之が守護の地位にあった時代である。通之は河野通堯の子で通義の弟である。兄通義が若くして死去したのに伴って惣領の地位を継いで伊予国守護となった。
 南北朝の内乱期は河野氏にとって苦難の時代であった。はじめ通盛が足利尊氏に味方して功績をあげ、守護の地位を得て伊予国における支配権は安定するかに見えたが、通盛の晩年からは、同じ北朝方でありながら四国全域支配をめざす細川氏との争いが激しくなった。通盛の子通朝は、貞治三年(南朝正平一九=一三六四)に細川頼之と戦って敗死し、その子通堯は、一時伊予国を脱出して九州大宰府に赴き、懐良親王に面会して南朝方に帰伏した。やがて帰国して武家方に復帰した通堯の前に再び細川頼之軍が迫り、康暦元年(南朝天授五=一三七九)の佐志久原の戦い(東予市)で通堯もまた敗死してしまった。こうして伊予国も細川氏の支配下に置かれるかに見えたが、細川氏の強大化を恐れた室町幕府は、河野・細川両氏の和睦を図り、宇摩・新居両郡を細川氏の支配地とするかわりに、残りの部分については河野氏の支配地とし、通堯の子通義を守護の地位につけた。これによって河野氏は、宇摩・新居二郡を除いた伊予国に関して再び守護の地位を回復し、これ以後領国支配を展開していくことになるのである。先にも述べたように応永元年(一三九四)に若くして死去した通義にかわって伊予の守護の地位についたのが弟通之であるが、この通之の時代は河野氏の支配が比較的安定した時代であるといわれている。
 さてその通之の名が永木の三島神社石柱の銘文にわざわざ明記されているのは注目に値する。このような銘文では建造に関った地元の願主・施主や大工の名を書き連ねるのが普通で、このようにわざわざ守護の名まで書くのは珍しいからである。この時期中山地域では、他地域に比べて河野氏の存在が強く意識されていたのではないだろうか。願主に名を連ねている合田通基も、河野氏の通字である「通」の字を名乗っていることから考えて、河野氏の一族あるいは家臣の一人であった可能性が強い。そのことは何よりも三島神社という神社名に現れている。これは大三島の三島神社(現大山祇神社)を勧請して社を築いたものであろうが、この三島神社こそは河野氏の氏神として知られる神社だからである。
 そのような目で見ると、中山町には三島神社と名の付く神社が非常に多いのが目につく。永木の藤縄の森三島神社のほかに、出淵の永田三島神社、佐礼谷の燈森三島神社、栗田の烏帽子杜三島神社などがそれである。これらも中世における河野氏の支配と無関係ではないであろう。

図2-1 河野氏略系図

図2-1 河野氏略系図