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中山町誌

五、 松前城と由並之城

 一方、攻防戦の舞台となった松前城は、もちろん伊予郡松前町に所在していた城である。現在松前町大字筒井の東洋レーヨン愛媛事業所正門前に松前城跡の碑が建てられているが、これは松前城の本来の位置ではなく、城はもともと東洋レーヨンの工場敷地内に位置していた。今は、その面影は全く残っていないが、東洋レーヨン進出以前の古い地図を見てみると(図2-3)、国近川の南に小さな丘陵が残っているのを確認することができる。これがおそらく松前城の故地であろう。とすると西側に伊予灘をひかえ、国近川の流路を堀として利用した松前城の姿をある程度想像することができる。ただこれはあくまでも加藤嘉明が築城した近世の松前城の立地であって、今問題にしている合田貞遠が立て籠った中世の松前城とはおのずから異なるものである。中世松前城については、今のところ詳細を知る手がかりがないが、近世松前城と同じ丘陵上に、小さな山城として存在していたのではないだろうか。
 合田貞遠は祝安親のためにその松前城を逐われて「由並之城」に逃れた。この「由並之城」についても、従来は双海町上灘の由並本尊城のことであるとされてきたが、必ずしもそうとはいえない。なぜなら由並(あるいは湯浪)は、当時にあっては、浮穴郡のかなり広い範囲をさす地名だったからである。たとえば、後述するように中世の史料には「湯浪中山」という表現がでてくる。これは中山町も湯浪=由並の一部であったことを示している。とすれば、「由並之城」も、固有名詞ではなくて由並地方の城ということで、中山地方のどこかにあった城と考えることもできる。ただこれについては、断定するためには史料が不足しているので今後の研究課題としておいたほうがよいであろう。
 なお、合田貞遠とともに祝安親の攻撃をうけた人物として杣田孫太郎光宗、河内彦太郎宗性などがいるが、これらについても、その人物像、館の位置等は不明である。今後これらの人物たちと合田貞遠との関連などを合わせて研究する必要がある。
 合田氏については、以上のような信憑性の高い古文書でその存在を確認することができる人物の他に、あまり信憑性の高くない記録類に断片的に姿を見せる人物たちもいる。
 例えば、「太平記」では、建武三年四月に九州から攻め上る足利尊氏軍を備後国(広島県)福山でくいとめようとした天皇方軍の中に合田某、暦応三年(一三四〇、正しくは暦応五年)脇屋義助病死直後の隙を狙って伊予を攻めようとした細川頼春軍に対抗して川之江城を守ろうとした水軍のなかに合田某の名を見ることができる。ただこれらはいずれも「アイダ」の読みが付されており、中山地方の合田氏とは別である可能性が高い。また江戸時代に河野氏家臣団を列挙して成立した「河野分限録」にも、「御侍大将十八将之内土居通建」の「御旗下組衆」として合田髙阿弥なる人物の名が見えるが、これも、別系統である可能性が高いように思われる。

図2-3 明治20年代の松前城故地の周辺

図2-3 明治20年代の松前城故地の周辺