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中山町誌

五、 比叡山で戦う仙波盛増

 合田貞遠が松前城や「由並之城」で祝安親の攻撃を受けていたのと同じ建武三年(一三三六)に、伊予から遠く離れた京都の比叡山の麓で、仙波氏の先祖が戦いの陣中にいた。それは仙波平次盛増という人物で、彼は河野通盛に率いられて当時後醍醐天皇を匿っていた比叡山の延暦寺を攻撃していたのである。史料3はそのことをつたえる史料である。
 伊予最大の豪族河野通盛が、鎌倉幕府の滅亡とともに勢力を失い、かわりに後醍醐天皇方として幕府方勢力の討伐に功績のあった土居・得能氏や忽那氏、大祝氏らが力を得たことは先に述べた通りである。しばらく失意のなかにいた通盛が再起のきっかけをつかんだのは、建武三年五月のことである。それは、建武政権のなかで後醍醐天皇と不和をきたし、いったん京都を追われて九州に逃れていた足利尊氏が、瀬戸内海を東上してきたからである。尊氏軍に身を投じた河野通盛は、湊川の戦いを経て京都に入った。尊氏軍の入京を知った後醍醐天皇は比叡山に逃げて難を避けたが、尊氏はその比叡山を激しく攻めたてた。その尊氏軍の比叡山攻撃に河野通盛も動員されており、仙波盛増はその陣中にいたのである。そしてその時の合戦の際の負傷者の名前を書き出したのが、史料3である(このような文書を手負注文と呼ぶ)。
 それによると建武三年六月五日に比叡山の南尾根で合戦が行われ、その時の負傷者の状況を実検して六月一三日付で善恵(河野通盛)が文書を提出したことがわかる。提出先は足利軍の中心人物のひとり足利直義で、直義はこの文書の端に「聞こし食され畢」と書き入れ、花押(装飾化したサイン)を据えて通盛に返却したのである。もちろん通盛は後日の恩賞の証拠とするためにこれを大切に保存したはずである。
 さてその史料3のなかに先の仙波平次盛増の名が見え、彼は「右ノハキ」を矢で射抜かれるという負傷をしたことがわかる。ここに記されているのは名前と傷の状況のみであるが、この盛増が出淵の仙波氏の先祖であることは、同氏の通字である「盛」の字を名乗っていることからまず間違いないであろう。この合戦には同族と覚しき仙波又太郎という人物も参陣していたようで、彼の若党大窪左近允家景、同弥平次実氏の負傷の状況も報告されている。このように仙波氏は、建武三年という非常に早い時期から河野氏の配下になって重要な役割を果たしていたことがわかる。
 なお河野氏の歴史を記した「予陽河野家譜」という後世の記録には、六月六日付(年代は記されていないが延元二年頃か)で左少将四条有資が仙波上野介という人物に宛てて、「朝敵人河野対馬入道善恵」を誅伐せよと命じた文書が掲載されているが、これは、全く同文のものが「忽那家文書」の中に残されていて、それを写し取ったものと考えられるので信憑性は低い。

史料3 善恵〈河野通盛〉手負注文并足利直義證判

史料3 善恵〈河野通盛〉手負注文并足利直義證判