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中山町誌

六、 勧応の擾乱と仙波又太郎

 それよりも重要なのは、先の比叡山合戦から一八年後の文和三年(正平九年、一三五四)に出された史料4の文書である。これは足利尊氏が河野通盛の子通朝に宛てて発した命令書で、内容は以下のようなことである。
 宇都宮入道蓮智が報告してきたところによると、堺右衛門太郎、同孫四郎、重松弥八、太田庄司、仙波又太郎以下の凶徒や足利直冬の家人石堂左衛門蔵人、新開左衛門尉らが喜多郡に押し入って城郭を構えているという。そこで報告をうけた足利尊氏は、守護河野通朝に対して、二宮修理亮とともに凶徒を誅伐して、喜多郡の土地をもと通り宇都宮蓮智が支配する状態に戻すよう命じたのである。
 文和三年といえば、ちょうどいわゆる観応の擾乱の時期である。後醍醐天皇と足利尊氏の対立が、建武三年一二月の天皇の吉野遷幸によって南北朝の分立に発展していくことはすでによく知られている通りである。ただ両朝の分立といっても圧倒的な軍事力を有する足利氏に擁立された北朝のほうが、一部の公家や武士に支えられた南朝よりもはるかに優勢な状態にあったことはいうまでもない。北朝方が南朝方を屈服させるのは時間の問題と見られたが、ちょうどそのような時に北朝方を支える室町幕府のなかで、内紛が生じた。これまで車の両輪のように幕府を支えてきた将軍足利尊氏と弟直義の対立である。この対立は息を吹き返した南朝も巻き込んで三巴の争乱を引き起こすことになった。これが観応の擾乱である。
 史料4の日付になっている文和三年二月はちょうど尊氏が弟直義を鎌倉において毒殺した月である。直義の死によって争乱は収まるかに見えたが、その後も直義の養子(実は尊氏の庶子であるが、それを直義が養育した)直冬が、九州や中国地方の武士を率いて反尊氏行動を続行したので、争乱は地方をも巻き込んで長期化していくことになる。
 さて、足利尊氏に喜多郡の窮状を訴えた宇都宮入道蓮智(本名貞泰)は、当時の喜多郡の有力領主である。大洲市手成の「西禅寺文書」の中には、蓮智の寄進状や置文が残されているのが知られている。宇都宮氏は、鎌倉時代に伊予の守護として関東地方からやってきたのであるが、その一族が喜多郡の地頭として土着し、鎌倉幕府滅亡後も有力領主として残っていたのである。
 その宇都宮蓮智は史料4によると、観応の擾乱の中で足利尊氏方として行動したことがわかる。その蓮智から凶徒として非難された人物たちの一人に仙波又太郎がいるのである。先に建武三年の比叡山攻撃の陣中にいた仙波又太郎と同一人物と見て差し支えないであろう。仙波又太郎と行動をともにした人物たちのうち太田庄司は、おそらく現在の小田地方(中世には太田と表記される事が多かった)の武士であろうから、浮穴郡の武士たちが喜多郡の宇都宮蓮智の領地に攻め込んだものと思われる。そして、その仲間に足利直冬の家人石堂左衛門蔵人がいたのであるから、当然直義・直冬にくみした反尊氏方として行動したことになる。
 このようにして、かつて建武三年に河野通盛の軍中にあって尊氏方として後醍醐天皇を攻撃していた仙波又太郎は、一八年後の文和二年には反尊氏方として行動していたことがわかるのである。

史料4 足利尊氏御判御教書 [尊経閣文庫所蔵文書]

史料4 足利尊氏御判御教書 [尊経閣文庫所蔵文書]