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中山町誌

七、 大野氏の侵入

 それから二〇年ほど経た永和二年(南朝天授二年=一三七六)、出淵に大野氏が侵入してきた。その事を伝えるのが史料5である。これは、当時室町幕府管領(将軍の補佐役)という要職にあった細川頼之が大野氏にあてて発した文書である(このような戦功に対して感謝の意を表する文書を感状という)。大野氏は現在の上浮穴郡一帯に勢力を有していた領主で、戦国時代に大除城主(久万町)として大きな勢威を有することになる大野直昌の祖先とみられる。
 史料5によると、大野左衛門次郎なる人物が道後出淵に打ち出して忠節を尽くし、そのことに対して細川頼之が感謝の意を表していることがわかる。なお、松山にも近世から近代にかけての時期に出淵という地名があり、道後出淵とあると、その出淵かとも考えられるが、松山の出淵は今のところ中世史料で確認できないこと、中世においては、道後は松山の一部ばかりでなく、伊予国西半分の広い地域を指す言葉であったことなどを考えると、中山の出淵である可能性が高いと思われる。
 大野氏が出淵で戦った相手は、この史料だけでは何ともいえないが、これまでの経過からすれば当然仙波氏でなければならないはずである。なぜ大野氏が細川頼之の命をうけて出淵に出陣することになったのか、その背後事情はよくわからない。ただ、頼之は三年後の康暦元年(一三七九)に幕府内の政争によって管領の職をとかれて本国讃岐に帰り、伊予に侵入してくることが知られている。細川氏は、頼之の父頼春の時から四国全域支配をめざして何度も伊予へ侵入して河野氏と戦っており、永和二年の大野氏の行動もこのような細川氏の伊予侵略の一貫として行われたものに違いない。大野氏は、この他にも細川氏とのつながりがいろいろなところで示されており、このころ同氏の家人となっていたものと思われる。

史料5 細川頼之感状 [大野系図]

史料5 細川頼之感状 [大野系図]