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中山町誌

八、 河野家の家臣

 この後、仙波氏は、しばらく史料上から姿を消し、戦国時代になって再び断片的に姿を見せ始める。それは後世に作られた河野氏関係の記録「予陽河野家譜」においてである。同書は先にも述べたように江戸時代になって書かれた記録であるから信憑性はあまり高くないが、いちおう同書に現れた仙波氏の姿を参考のために紹介しておくことにする(これらは必ずしも歴史的事実ばかりではない)。
 文明一一年(一四七九)阿波国の細川義春が侵入してきた時に、河野通生が風早郡神途城(北条市)に立て籠ってこれを迎え討ったが、その籠城勢のなかに仙波氏の名を見ることができる。また永正八年(一五一一)に「宇和山方衆」が河野氏に対して反乱を企てた時に、討伐に派遣された河野軍の中に仙波左衛門、出淵三郎がいる。また元亀三年(一五七二)七月に毛利氏が侵入してきた時には、仙波大炊介貞高が、同年九月に阿波三好氏が侵入してきた時には仙波左馬介がそれぞれ河野氏の陣中に姿を見せている。なお仙波貞高は、松山市北久米町の大護神社の祭神とされ、同地の仙波一族にまつられているというから(『久米郷土誌』)、中山町域の仙波氏とは別系統であろう。念のためにその後の姿を追っておくと、天正元年(一五七三)に喜多郡地蔵嶽城主(大洲市)大野直之が反乱をおこした時の追討軍のなかに仙波左馬介、同大炊介がいる。大炊介は、豊臣秀吉による四国平定によって国を失った河野通直が、天正一五年(一五八七)に伊予を退去した時に伴をした五〇余人の「随従の輩」の一人でもある。
 同じく江戸時代になってから編纂された河野氏家臣団の記録「河野分限録」では、仙波大炊介貞高は「御旗奉行」、同左馬介は「御足軽大将」一五人の一人として見える。