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中山町誌

一、 熊野三山

 今まで知られていなかった郷土の中世に関係する古文書のひとつに史料6に示したようなものがある。これは「米良文書」と言って、紀伊国(和歌山県)の熊野に関係する古文書のうちのひとつである。熊野には、よく知られているように熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社のいわゆる熊野三山があるが、「米良文書」は、その内の那智大社の御師(後述)の家に伝えられた古文書である。
 紀伊半島の南端にあたる熊野の地は、高く険しい山々の連なり、その間を縫うように流れる熊野川、そして南にひろがる広大な太平洋などの地形的要因が重なって、早くから霊地として崇拝の対象となっていたところであるが、後にそれが仏教信仰と結びついて古代・中世の一大宗教ゾーンとして発展した。平安時代の初期には熊野坐神社(のちの本宮大社)、熊野速玉大社(のちの新宮)が成立し、一一世紀ごろには熊野那智大社が加わっていわゆる熊野三山ができあがったと考えられている。那智大社は、近傍の雄大な那智の滝を崇拝の対象とする山岳宗教の拠点であったが、後には、近くの海浜からはるか南方にあるとされる観音菩薩の補陀落浄土に船出するための場所とされて観音信仰の霊場ともなった。本宮大社も本来は土俗的な信仰の場であったと考えられるが、後には熊野の神の化身が阿弥陀如来とされて極楽往生の証明を受けられる場所と考えられるようになり、速玉大社の神も薬師如来の化身と考えられるようになった。
 このような熊野への参詣、いわゆる熊野詣が急速に盛んになるのは院政時代で、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の各上皇は約百年間に合計百回近くの熊野行幸を行った。鎌倉時代以降になると参詣の中心は武士層に移り、地域も全国に拡大していく。最も多いのは東国地方であるが、伊予を含めて、四国、中国地方からも多くの人々が熊野詣に出かけたことが確認されている。史料6はそのような熊野信仰の波が応永一八年(一四一一)頃には、この地域にも及び始めたことを示している。
 史料中の文言を少し詳しく検討してみることにしよう。重要な文意は、湯並中山、すけ塔、三国または惣家、ひれい、長木、ユノ木、トチノ木の七村の「地下一族の者」が那智大社参詣に関ったということである。ここで興味深いことは、そこに示されている地名である。湯並中山、長木、ユノ木、トチノ木がそれぞれ現在の中山、永木、柚之木、栃之木に相当することは間違いないところであるが、すけ塔は重藤、惣家は添賀にあたると考えて差し支えなかろう。また三国は、大字中山の福元に山谷の地名が残されているし、「ひれい」は、同じく高岡の北平と関係がありそうである(近年の調査で高岡の薬師堂の石像に「享保二丁酉年九月廿一日、日禮村中」という銘文があることが発見され、江戸時代には「日禮村」が生きていたことが明らかになった)。とすると、史料中の地名のすべてが大字中山の内におさまることになる。湯並中山が以上の七地名の総称なのか、それともそれらと並列の地名なのかによって少し事情が異なってくるが、いずれにしても、これらの地域がすでにこの時点で「村」としてひとつの生活の単位をなしていたのは、非常に興味深いことである。つまり現在とほとんど変わらないような集落の形態が、一五世紀の初め頃にできあがっていたことになる。
 そして、これらの村々は、当時は浮穴郡の内であった。江戸時代には、現中山町の四大字の前身である村々のうち、出淵、佐礼谷は浮穴郡湯並郷、栗田村は浮穴郡砥部郷に属し、中山村のみは喜多郡の曽根郷に属していたことが知られているが、中世においては、大字中山地域も浮穴郡に含まれていたことが明らかである。

史料6 旦那願文 [米良文書]

史料6 旦那願文 [米良文書]