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中山町誌

二、 小早川隆景

 小早川隆景(一五三三~九七)は、中国地方の戦国大名毛利元就の第三子である。豊臣秀吉に重く用いられるようになり、秀吉の四国征伐終了後、功績により伊予一国三五万石を与えられた。現中山町は全域が隆景の支配下に入った。隆景は天正一四年三月五日、部下の乃美兵部丞宗勝に伊予における城の処置に関する指示を与えた。その指示によれば、最低二万貫(二万石とほぼ同じ)程度を基準とし、重要と考えられる一〇か城以外は存続させないこととした。
 この指令は『萩藩閥閲録』に収められている古文書のうち「小早川隆景書状」によって知ることができる。残されることになった一〇か城とは、湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋(鹿島)・来嶋・小湊(米湊)・櫛辺・壬生川であった。この中に現在の中山町に関係する城はない。伊福城などの中世城郭(中世の項参照)は、存続対象とならなかった。これまで、中世城郭の主として活躍していた人々のうち伊福城の仙波氏のように庄屋として存続したものもあるが、多くは没落した。
 天正一五年、隆景は九州攻めの功績によって筑前一国と筑後・肥前の一部を与えられて筑前名島に移った。
 伊予の旧領主、河野通直は隆景が筑前国に移った後、伊予を去り安芸国竹原(広島県)に移った。この時通直に随行した者約五〇人の中に和田山城守通勝がいる。通勝は現重信町にあった岩伽羅城の城主で、現中山町佐礼谷の旧庄屋和田氏は岩伽羅城の城主の子孫である。