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中山町誌

三、 福島正則・粟野秀用・加藤嘉明・蒲生忠知

 福島正則(一五六一~一六二四)は、天正一五年八月伊予国で一一万三、二〇〇石を与えられた。小早川隆景が筑前に移されたあと、秀吉は伊予を分割して東予を正則に与え、中予は蔵入地(秀吉が年貢を直接収納する土地)として、九万石を正則の統治に任せた。現中山町に該当する土地としては、蔵入地に該当する栗田が存在した。福島正則の蔵入地はその後、栗野秀用に与えられた可能性がある。秀用の領地と推定されるのは、伊予・久米・温泉・浮穴の各郡にまたがっていたと考えられるから、現在の中山町のうち中山以外は秀用の支配下に入っていたといえよう。秀用は文禄四年(一五九五)七月一五日、豊臣秀次の死に殉じて京都粟田口で切腹した。粟野家が断絶したため同家の歴史は不詳である。
 文禄四年以後中予に入ったのは加藤嘉明(一五六三~一六三一)である。彼は福島正則と同様に、幼少のころから豊臣秀吉に仕え、賎ヶ岳の戦い・四国征伐・九州征伐・小田原征伐で活躍し、天正一四年淡路志智城(一万五、〇〇〇石)を得た。彼が伊予で六万石を得たのは文禄四年七月二一日のことであった。このとき浮穴郡二万三、〇〇〇石などを蔵入地として預かったから、秀用の旧領は嘉明の支配下に入ったといえよう。現在の中山町のうち中山以外はこの領域に含まれていたと推定される。
 嘉明は慶長三年(一五九八)、秀吉の朝鮮出兵に際し功労によって一〇万石に加増され、さらに同五年の関ヶ原の戦いの戦功によって、藤堂高虎とともに伊予で二〇万石を領有する大々名となった。嘉明と高虎は伊予を二分し、中山町の旧村のうち栗田は嘉明にそれ以外は高虎の支配下に入った。
 加藤嘉明が会津に移った後、蒲生忠知が新領主となった。伊予における忠知の治世はわずかに八年である。すなわち寛永一一年忠知は、わずか三〇歳で病没し、後継者がいなかったため、その領地は幕府に没収されることになった。幕府領となった旧松山藩の領域は、大洲藩主加藤泰興が預かった。この時、領地の交換が行われ、いわゆる「お替地」と呼ばれた伊予郡一八か村(郡中、現在の伊予市のあたり)・浮穴郡麻生村・砥部郷一六谷などが大洲藩領に転じたのである。この時の替地は現中山町の栗田に関係がある。栗田はそれまでの松山藩領から大洲領に替えられた。また現佐礼谷のうち中替地と呼ばれる地域も同様の扱いとなった。伊予市の南端にある平岡は、江戸時代においては佐礼谷村の一部であったが、昭和三三年に中山町から分離した。以後の近世における佐礼谷の記述は、伊予市平岡を含んでいる。