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中山町誌

四、 戸田勝隆・池田高祐・藤堂高虎・脇坂安治

 小早川隆景が九州に移って後、大津(大洲)に封ぜられた戸田勝隆は宇和・喜多両郡の支配者として一六万石(蔵入地も含まれるが何万石か不詳)を領した。中山町の中山・佐礼谷・出淵はその内に含まれ、天正一五年六月から文禄三年(一五九四)までその統治下にあった。戸田勝隆の後、大洲城は池田高祐が預かり、文禄四年六月に藤堂高虎が入城するまでの間、一〇か月間支配者となった。池田高祐(秀氏)は関ヶ原の戦いの時に西軍に属して敗北しており、領地は大洲一万二、〇〇〇石となっているから、伊予国で領地を有していたことは間違いないようである。この時、現中山町がその領域に入っていたのかどうかは不明である。
 さて藤堂高虎であるが、領地は宇和郡七万石であり、この他に喜多郡・浮穴郡・宇和郡にまたがる蔵入地があった。その内訳は喜多郡三万一、六五六石、浮穴郡一万二、二一一石、宇和郡二万二、三一四石となっていた。現中山町の村々のうち替地部分以外はこの中に含まれていたと推定される。慶長三年(一五九八)六月、高虎は秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)に参加して戦功があり、これまでの領地七万石に加えて、喜多郡のうち久米郷四、四七〇石五斗五升、同郡横松一、〇五〇石九斗八升、同郡北山之郷九三五石九斗五升、浮穴郡上灘九八三石五斗一升、喜多郡曽根二、二六二石三斗四升、同郡粟津之郷内二九七石を合わせて八万石に封ぜられた(「宗国史」)。
 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで、藤堂高虎は東軍に属して戦功があり、戦後一二万石を加増されて二〇万石の領主となった(「高山公実録」)。関ケ原の戦いの時、伊予宇和郡では三瀬六兵衛という者がおり、毛利家と結んで藤堂高虎を倒そうと図った。計画は事前に発覚して六兵衛は落命した。六兵衛の弟七兵衛は松葉・大洲・新屋(新谷)・内ノ子と逃れ、出淵まで来た時に捕らえられたという(「宇和旧記」)。
 慶長一三年(一六〇八)八月、藤堂高虎は伊賀・伊勢に移り、宇和島には富田信高が入り、今治は藤堂高吉が受け継ぎ、残りの八万石は蔵入地となり藤堂高虎が一時的に管理することとなった。同年九月、脇坂安治が大洲城に入り、藤堂高虎の領地(当時蔵入地)のうち喜多郡・浮穴郡・風早郡で五万三、五〇〇石を与えられた(脇坂家譜)。村名の記録が残されていないため、正確なことはわからないが、現中山町の替地関係の地域以外は脇坂安治の支配下に入ったものと思われる。
 脇坂安治の治世中、慶長一五年(一六一○)八月一八日、年貢米・夫役・山林竹木に関する給地支配の規定が出されている。従来の土豪による直接支配を排除し、土地を与えた家臣についても、その経営について藩主の権力を及ぼそうという内容であった。その概要については村役人の項目を参照されたい。
 安治の子安元は大坂夏の陣で戦功があり、元和三年(一六一七)信州飯田五万五、〇〇〇石を与えられて大洲を去った。同年七月米子城主加藤貞泰が大洲六万石を与えられて、八月に長浜に到着した。中山・佐礼谷・出淵は加藤家領となった。寛永一一年(一六三四)に貞泰の嫡子泰興が将軍から与えられた領知朱印状に「喜多郡、浮穴郡の内四万五、〇〇〇石」という部分があることからも明らかである。
 寛永一二年、大洲藩二代目藩主泰興の時、前述したように松山藩領と大洲藩領との間に替地が行われ、松山藩領であった栗田と佐礼谷の一部である中替地が大洲藩領に編入された。以後、現中山町の村々は江戸時代を通じて大洲藩領であった。この間の領主は初代貞泰、二代泰興・三代泰恒・四代泰統・五代泰温・六代泰れい・七代泰武・八代泰行・九代泰候・十代泰済・一一代泰幹・一二代泰祉・一三代泰秋と交代した。