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中山町誌

一、 検地と村切り

 (一) 太閤検地
 中山町の現在の大字にあたる江戸時代の村は、太閤検地による村切りによって確定した。豊臣秀吉の検地はそれまでの戦国大名や織田信長が実施した指出検地とは根本的に違っており、指出検地が土地台帳の提出だけで済んだのに対して、土地の測量を実際に行う(直接検地)点が最大の相違点であった。
 太閤検地の基準は、秀吉による日本統一が進行するにつれて整備され、文禄三年(一五九四)には、ほぼその大綱ができあがった。その概要は次のとおりである。
 ①間竿の統一………一間=六尺三寸とした
 ②一反は三百歩……従来は一反=三百六十歩
 ③桝の統一…………不統一であった桝を京桝に統一
 ④検地帳記載基準…検地帳に記載する地目を田・畑・屋敷の三種類とし、地位は上・中・下・下々耕作者(年貢負担者)を記載
 ⑤石盛の実施………土地の生産力を査定、石高表示
 ⑥村切りの実施……太閤検地の特色。村境を確定
   村の規模は集落の実態に合わせたから極端に大きな村があるかと思えば、非常に小さな村もあった。

 (二) 村高・人口
 伊予における太閤検地は、福島正則や戸田勝隆が領主となった天正一五年以後のことである。中予地方は秀吉の蔵入地が多かったから、比較的早く検地が実施されたものであろうと考えられる。中予地方の場合、このときの検地帳が残存するのは中島町の大浦・長師など一部にすぎず、現中山町に関係するものは全く残っていない。
 秀吉の命により、中予地方では、福島正則かもしくは戸田勝隆による検地が実施された(推定)。その結果、近世村落として現中山町の喜多郡中山村、浮穴郡出淵村・佐礼谷村・栗田村が成立したと思われる。もっとも前述のように、佐礼谷村の一部の中替地は寛永一二年から佐礼谷村に編入されたものである。また現在の伊予市平岡は、佐礼谷村の一部であったが、昭和三三年伊予市に編入された。村が所属する郡は、江戸時代を通じて固定されていたわけではなく、水利慣行・入会地利用・その他の都合により郡替が実施されることがあった。
 大洲藩では、郷村を郡別に統治せず、四つの地域に分割して支配した。四つとは郡内・御替地(寛永一二年より)・忽那島・摂津領である。この内、郡内は田渡筋・南筋・浜手筋・内山筋・小田筋に分け、それぞれに郷代官を置いた(一〇代藩主泰済時代から小田筋・南筋・川筋・内山筋に変更された)。現中山町に関係する村は内山筋に属したものが中山・出淵・佐礼谷で、栗田は佐礼谷の一部とともに替地に属していた。
 中山町の村々の人口の推移について適当な史料が見当たらない。小物成や高掛物などの負担から軒数を割り出すことは可能であるが、人口を詳細に把握することは困難である。出淵は、寛永四年(一六二七)八月八日から一〇日にかけて、幕府の隠密が大洲領を調査して松山領に入った時の報告書に登場する。隠密が八月一〇日に宿泊したのが出淵で、「同日 とまり申候、いづぶちへ三リ 此間に千ぶの坂と云坂有 出羽殿領分 家百計」とある(「讃岐伊与阿波探索書」)。内子が二〇〇軒、松前が二〇〇軒であるから、出淵はその半分程度の規模であったようだ。
 安政三年(一八五六)、中山村は五九二軒・二、六三五人、出淵村は五六〇軒・二、二四〇人、佐礼谷村は三二八軒・一、三七七人であった(「大洲手鑑」)。明治初年には中山村が六五九軒・二、八三四人、出淵村が五七五軒・二、五〇八人、佐礼谷村が四〇四軒・一、五七二人、栗田村が七六軒・三二五人となっている(「伊予郡地誌」・「浮穴郡地誌」・「喜多郡地誌」)。精査すればこれ以外にも史料を発見することが出来るのであろうが、現在のところ手掛かりはこれだけである。

 (三) 村々の景観と村勢
 現中山町は全体を概観すると、約七〇〇~約八〇〇メートル級の山地が東西に連なり、階上山に発する中山川は中山盆地を流れ、内子町に向かって流下している。中山川と同様、階上山に発する栗田川は秦皇山を囲むように流れた後、町の中央部で中山川と合流している。この両河川流域に形成された水田は非常に少ない。現在の中山町に含まれる近世の村々の様子を概観してみよう。
 ①中山村は、中山川沿いの山村である。集落は南北に走る大洲街道に沿っており、在町が形成されていた。
 「慶安元年(一六四八)伊予国知行高郷村数帳」に「中山村日損所、柴山有、茅山有、川有」とある。村高は一、二〇六石二斗八合、うち田六四八石九斗九升、畠五五七石二斗一升八合。中山村はもと出部郷と呼ばれていた地域の一部であったが、江戸時代には出部郷が細分されて自並郷・砥部郷・広奴田郷・曾根郷となった。中山村が属したのは曾根郷であった(「中山町誌」)。
 三島神社(中山・永木三島神社)は、古代起源の神社である。もと藤縄之森三島神社と称していたが、合田・城戸氏の崇敬篤く、社殿が整備され、境内地の拡張が行われた。明暦三年(一六五七)三島神社と改めた。江戸時代には大洲藩主加藤家より代参の者が参拝した。「大洲秘録」には梅原三島宮と記され、祭日は八月二三日であった。
 拝殿に向かう石段の下に一対の灯籠がある。左側には「元禄一六癸未歳三月日当村名主長岡尹貞発起之」とあり、玉井市郎兵衛・内田藤七の名が見える。また右側には木戸〈彳台〉右衛門・木戸九郎兵衛と記されている。灯籠・鳥居の寄進に尽力した人々としては、前述の者に加えて、片岡藤太郎・内田太右衛門・篠崎六太郎・奥嶋五左衛門・奥嶋半兵衛・玉屋九郎右衛門・奥村庄兵衛・片岡三左衛門らの名が見える。当時の神主は佐伯能登守であり、石大工は尾崎の九兵衛であった。
 江戸時代に奉納された石灯籠は、前記のほかに文化一三年(一八一六)のものと文政八年(一八二五)、同一二年のものがある。文化一三年のものには願主大埜新左衛門と刻まれている。狛犬は文政四年の作で永木当屋常治良・永木庄五良(城戸姓)とある。
 寺には大興寺(曹洞宗周防禅立寺末)・梅原寺(曹洞宗高昌寺末)・浄光寺(浄土宗寿永寺末)があった。現在その所在が明らかでない瑞雲庵は、黄檗宗菅田正伝寺末である。伊予への黄檗宗伝来は、延宝七年(一六七九)五月、別峯が大洲領中山村泉町美濃屋内田太右衛門の建立した瑞雲庵に入ったのをはじめとすると伝えられている。別峯は松山藩主松平定直の帰依も得て、松山領風早郡八反地村に宗昌寺を再興し、和気郡山越村の千秋寺創建にも参画し、同郡祝谷村に知泉寺を開いたという(「大洲随筆」)。
 ②出淵村は、南北に流れる中山川の東側に当たる地域である。栗田川は村内を東西に流れ、この二つの川の流域のみに平坦地が見られる。中山村と同様に大洲街道が通り、人馬を出す定めであった。「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」に「出淵村 茅山有、川有」と記されている。村高は九六〇石六斗七升六合、うち田五九五石九升三合、畠三六五石五斗八升三合。出淵村は江戸時代、佐礼谷村と同じく由並郷に属していた(「中山町誌」)。
 三島神社(出淵門前)は、境内神社に金刀比羅神社がある。「大洲秘録」に永田社、三島大明神とある。祭日は八月二五日であった。天保六年(一八三五)建立の石灯籠、同一〇年(一八三九)建立の鳥居、元治元年(一八六四)の手洗石がある(村役人の項参照)。
 川崎神社(出淵)は大洲藩主の尊敬が篤かった。文化一四年(一八一七)建立の鳥居と天保一〇年(一八三九)の石灯籠がある。
 盛景寺(禅宗京都妙心寺末)は仙波氏の菩提寺である。橡谷に古い地蔵がある。「南無大師遍照金剛」と記され、元文二年(一七三七)七月に出淵橡谷の宗元が施主となって作られたと刻まれている。
 ③佐礼谷村は山岳地に多くの集落が点在していた。
 「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」に「佐礼谷村 茅山有」と記されている。村高は六二九石二斗七升、うち田四五二石五斗五升三合、畑一七六石七斗一升七合。
 三島神社(佐礼谷)は「大洲秘録」には三島大明神社と記されている。祭日は八月二八日であった。寺院には誓明寺(京都妙心寺末。仏日山と号す)・真光寺(峯の薬師ともいう)がある。真光寺の仏像は名作という(「大洲秘録」)。誓明寺の住職徹通が和田治兵衛らと共に、日浦の観音堂を建立したのは宝暦一〇年(一七六〇)のことであった。観音堂は天保三年(一八三二)に再建されている(観音堂棟札)。
 藤ノ瀬には、明和二年(一七六五)建立の地蔵堂があり、地蔵堂近くの泉は大洲街道を通行する旅人の喉を潤していた。泉近くにある小さな地蔵には享保九年(一七二四)・明和八年(一七七一)の銘がある。
 ④栗田村は中山村の南東部に位置し、栗田川が流れ下る谷間の集落。「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」に「栗田村柴山有」と記されている。村高は一一九石、うち田四八石九斗八升、畠七〇石七斗。栗田村は江戸時代砥部郷に属していた(「中山町誌」)。
 烏帽子杜三島神社(栗田)は鳥居の銘に寛政四年(一七九二)二月とあり、手洗石には享和二年(一八〇二)奉納とあるから、この時期に社殿が建立されたと推定されている。同社神主志摩守宗実(延宝八年没)の墓石が北東の小学校跡地にある。現在の社殿は明治一二年(一八七九)の建立である(「愛媛県神社誌」)。栗田の人々は玉谷村(現広田村玉谷)大安寺の檀家であった。
 江戸時代、村の概観を一村限りで領主に報告した帳簿を村明細帳という。記載される内容は村高・村名、城下町までの距離、地目別田畑の面積、年貢・小物成など諸負担、戸口、村入用の総額と村役人給、主要作物・特産物・肥料・寺社・名所・旧跡など、かなり細かく報告をしている。ただ、その内容は領主の要求によって報告するため、時期によって、また大名によってかなり違いがある。村明細帳を郡単位でまとめたものが「郡手鑑」などと名付けられた帳簿である。作成の時期が一定期間をおいているわけでもないので、村の定期的な移り変わりはつかめないが、ある時期の村の様子を知るためには絶好の資料である。現中山町に関するものは残ってない。

図3-1 江戸時代の村々

図3-1 江戸時代の村々


表3-1 村々の概要一覧 ①

表3-1 村々の概要一覧 ①


表3-1 村々の概要一覧 ②

表3-1 村々の概要一覧 ②