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中山町誌

二、 郷村の運営

 (一) 郡奉行・代官の支配
 江戸初期は、大名から知行地を与えられた家臣が、封ぜられた土地を直接支配していた。これを地方知行というが、その存続期間はそれほど長くはなかった。一七世紀半ばを過ぎると、多くの藩で地方知行をやめて蔵米知行に切り替える動きが出てきた。大洲藩の蔵米知行実施は天和元年(一六八一)、三代藩主泰恒の時代である(『温故集』)。大洲藩領ではこれより以前、慶長一五年(一六一〇)、脇坂安治が年貢米・夫役・山林竹木に関する給地支配の規定を発令して、家臣が知行地(給与された土地)を自由に支配することを制限している。比較的早い時期に領主の直接支配に移行する下地ができていた。
 脇坂安治は慶長一五年八月一八日に、年貢米・夫役・山林竹木に関する給地支配の規定を布告した。その内容は『黒田文書』(『愛媛県史資料編』近世上所収)に記載されており、概略は次のとおりである。

 ① 年貢米の納入方法
 年貢米納入額は当年は従来(蔵入地の時代)と同様とし、給人ときもいり(庄屋)が確認し収納する事。
 次年から領主(脇坂)の指令により収納作業を行う。
 役米は納入一石について三升とする。
 年貢米を納入する時は、桝取りはその村のきもいりとし、給人が桝取りをしてはならない。
 俵の数は、給人が各々の場所で出させていたが、百姓の能力に応じて出させるように、もし百姓が偽りを言うならば領主に届けること。給人が無理を言う場合は百姓が領主に届けるように。
 年貢米を計量する時、その多少によらず、その都度百姓に受け取り(領収書)を出す事。

 ② 家臣の耕作に関する規定
 知行所での給人手作り(直接耕作)を禁止する。百姓が良い田畑を取り上げられた上に手作地耕作に使役されるからである。但し、荒地・捨地がある場合は、きもいりに届けて、作人のない事を確認すれば、手作りしてもよい。
 給人の知行所へ手代が出向く場合、一切接待してはならない。

 ③ 詰夫に関する規定
 詰夫(給人が私的に所領に課す夫役)については、一○○石より一五〇石までは一か月二五日、一七〇石より三五〇石までは一人常詰夫、四〇〇石より六五〇石までは二人、七〇〇石より九五〇石までは三人、千石は四人である。一度詰夫を決めた以上、入木(薪)を出させてはならない。

 ④ 山林竹木伐採に関する規定
 給人へ知行地として与えたといっても、給人がその土地の山林竹木を切り取ってはならない。管理はきもいりに申し付ける。
 領主の直接支配になると、徴税や行政のための役人が任命された。大洲藩では、二代藩主加藤泰興時代に喜多郡の内八三か村、浮穴郡の内五五か村、伊予郡の内一七か村、風早郡の内六か村、摂津国武庫郡の内二か村の領域が確定した。藩はこれらの領域を郡内・御替地・忽那島・摂津領の四つに分けた。中山町が属したのは郡内である。藩は郡内を五つの行政区域に分割し、それぞれに郷代官を置いた。五つの行政区域とは、田渡筋・南筋・浜手筋・内山筋・小田筋である。中山町は栗田を除く地域が内山筋に属した(栗田は替地のうち山辺)。

 (二) 郡役人・村役人
 ① 大庄屋
 江戸時代の村落支配機構の一つに、大庄屋がある。これは村々の庄屋よりも上位にあって、一つの郡に二名程度が置かれたようである。そのため一人の大庄屋が管轄する村の数は少ない場合でも十数ヶ村、多い場合には数十ヶ村にものぼった。大庄屋は郡奉行・代官の下で、支配下の村の庄屋を通じて年貢その他を徴収し、土木・普請を総括し、林野の管理、水利問題の調整、一揆・訴訟の鎮圧や懐柔、郡役人としての仕事などを行った。伊予諸藩のうち大庄屋制度は、江戸時代初期の大洲藩、江戸時代一七世紀中頃以後における松山・今治・西条藩に見られた。
 大洲藩の場合、中世末期の領主である西園寺公広の家臣の多くが城下に集住していなかったこともあって、西園寺家臣団のうち中小領主の多くは、従来の根拠地において土着し庄屋になった。これは、小早川隆景が旧支配地の検地を実施せず、土地台帳差出(指出)で従来通りの現地支配を認めたからである。その後、戸田勝隆が入部して太閤検地を実施、かなりの旧支配者層を現地支配者の地位から追放し、土豪・小領主を庄屋に取り立てた。こうした背景があるから、江戸初期の大洲領には大庄屋が残存したのである。戸田の後に宇和郡・喜多郡・浮穴郡などを領した藤堂高虎は庄屋を任命制とした。
 ここに大庄屋・庄屋は藩役人としての性格を有することになった(「大洲藩庄屋の源流について」『伊予史談』一五八)。
 『大洲領庄屋由来記』によって大庄屋に例をいくつか列挙しよう。古田村(現五十崎町)では、五十崎郷一一か村の大庄屋弥作が召し上げられた後に源兵衛(大野氏か)が古田村一村の庄屋となったとある。江戸時代初期のことである。知清村(現内子町)の項にも「栗田宮内友徳、近江国栗田之産、鳥屋森之城ニ住、其子宗徳親ニ至り、慶長年中親宮内押領高三千石余之大庄屋ニ成、其子江弥作被召上候一ヶ村庄屋被仰付」とある。中居谷村(現肱川町)の項にも、江戸時代初期に一〇か村を預かった五郎右衛門の名が見られる。中山・佐礼谷・出淵を同時に預かった庄屋の名前を発見することはできなかった。なお、江戸時代初期に見られた大庄屋はその後、名称を目付庄屋と改めたが、名目のみに終わり、村の運営は一か村に一人置かれた庄屋に任されることになった(『愛媛県史』近世上)。

 ② 庄屋
 一般の庄屋は小庄屋または平庄屋とも呼ばれた。大洲藩の場合、江戸時代初期には帯兼庄屋が多かったが、しだいに一つの村に一人を置くようになった(『愛媛県史』近世上)。庄屋は世襲的な要素はあるが、適任者がいない場合とか、先任の庄屋が病気となって、その子供が若年である時などは、預庄屋と称して近隣の庄屋がしばらくのあいだ任務を代行することがあった。また、特殊な例ではあるが、郡奉行から他の村の庄屋を命じられて、その村へ移住することもあった。災害・飢饉などが連続する時とか、庄屋を勤めていた家が没落した場合には、平百姓の中から庄屋が任命される場合もあった。
 庄屋は、村の行政の中心であったから、藩でもその待遇には十分配慮した。すなわち、庄屋は村高に応じた庄屋給米を与えられ、庄屋抜地または庄屋貫請地と呼ばれる土地の経営が許され、その土地については、夫役や小物成が免除された。もっとも、庄屋の給与は藩が支給することになっていたが、実際には村人から徴収されていた。組頭など村役人の給与は村入用のうちから払われたから、年貢の他に農民の負担として加算されたわけである。
 庄屋の仕事は、村政の全てにわたり、領主からの命令の伝達、公文書の作成、村寄合の取りまとめ、年貢・諸役の割り付け・徴収、土木・水利普請の手配、山林・入会地の管理、その他村人の生活管理にまで及んだ。
 庄屋は任務によっては城下町に出なければならない場合もあった。そのような場合に宿泊する常宿があった。
 村庄屋の系譜を全て調査することは困難である。これまでに判明しているものを掲げてみよう。
 「大洲領庄屋由来記」には、中山村庄屋を九郎左衛門-久左衛門-市右衛門-九郎左衛門-甚兵衛-長岡九郎左衛門―長岡弥三郎としている。「中山町誌」には天正年間に城戸氏が庄屋となり、寛永七年(一六三〇)には中山氏に交替、元禄一六年(一七〇三)に到って長岡氏と交替したと記している。久左衛門が加藤泰恒入部に際して御礼に出頭したのが元禄一六年であり、このころ交替とするのが妥当と思われる。「大洲領庄屋由来記」によれば、長岡九郎左衛門が苗字帯刀を許可されたのは天明二年(一七八二)、長岡弥三郎が苗字を許されたのは文化元年(一八〇四)であるとしている。城戸・中山両氏については記録が残存していないので検証することができない。また、庄屋屋敷についても、当初は梅原にあったものが、元禄一六年ころ泉町に変更されたと思われる。
 出淵村庄屋は「大洲領庄屋由来記」によると右衛門太夫盛忠より仙波を称したとある。盛忠以後、
 嘉右衛門盛益-弥作盛胤-与吉盛清-与右衛門盛重-甚右衛門景陸-伊左衛門盛寿-五郎右衛門盛英-仙波佐七郎盛明-儀左衛門盛政の名が見られる。
 「出淵家の系譜」によれば、盛益の没したのは慶長九年(一六〇四)であったという。「予洲仙波家系譜」には次のように記されている。相違する部分を検証する方法がないので、系譜のまま掲げる。
 仙波嘉(加)右衛門盛益-弥作盛胤-與吉盛清-與右衛門盛重-甚右衛門景睦-藤助景福―伊左衛門盛寿-五郎右衛門盛英-佐七郎盛明-儀左衛門盛光
 川崎天満宮に文化一四年(一八一七)建立の鳥居がある。氏子の中に仙波佐七郎盛明の名が見え、これに組頭五人の名前が続いている。
 出淵の永田三島神社には天保一〇年(一八三九)建立の鳥居があり、大森保之進の名が刻まれている。また同神社の手洗石にも元治元年(一八六四)の庄屋大森保之進とある。
 佐礼谷村庄屋は「中山町誌」によれば、竹岡喜左右衛門が元和六年(一六二〇)に任命されたとある。和田氏と交替するのは享保五年(一七二〇)のことである(「大洲領庄屋由来記」)。
 「大洲領庄屋由来記」には、治兵衛-和田治兵衛-和田伝五兵衛-和田種子助-和田要助の名が見られる。
 日浦の観音堂は宝暦一〇年(一七六〇)の造営であり、施主として和田治兵衛の名が見られる。和田氏が何年まで庄屋を勤めたかは明らかでないが、同観音堂が天保三年二(一八三二)に再建された時の庄屋は鷹尾寅三郎であった。同所の手洗石は、安政二年(一八五五)の作であるが、これにも鷹尾寅三郎の名がある。
 「中山町誌」には庄屋交替時期を文政九年(一八二六)としているが、傍証史料は発見できなかった。
 栗田村庄屋は「大洲領庄屋由来記」に彦右衛門-吉右衛門-奥村嘉助-弥右衛門-久次郎の名がある。『烏帽子杜三島神社誌』に、寛文一二年(一六七二)三島大明神の社殿を小笠原加兵衛尉の母が願主となって造営したと記されている。また同書に、寛政四年(一七九二)烏帽子杜三島神社に石鳥居が建立された時の庄屋として弥右衛門の名がある。天明五年(一七八五)の「御触書写」(上吾川宮内家文書)に嘉助の名が見られる。天保一二年(一八四一)の「郡中庄屋順席帳」(伊予市上野玉井家文書)には栗田村庄屋として京太郎という人物が記載されている。久次郎との関係はどうか、現段階では不詳である。

 ③ 組頭・五人頭
 組頭は、一つの村に数名置かれた。通常は五人組の頭から選出されることになっていたようである。役割は庄屋の補佐であり、報酬として組頭給米・組頭給畑があった。給米は四斗程度である。中山村の組頭と考えられる人物が山本家所蔵文書に登場する。嘉永五年(一八五二)の長右衛門、弘化三年(一八四六)の長太郎・徳右衛門・幸左衛門である。泉町にも組頭が存在したようである。文政二年(一八一九)の漆屋治吉郎、文政九年(一八二六)の米屋六左衛門、嘉永二年(一八四九)の奥嶋九兵衛などである。
 出淵村では、天保一〇年(一八三九)の組頭が判明している。影之浦は長三郎、門前は谷右衛門、野中は岩右衛門、小池は重右衛門である。出淵村永田三島神社鳥居の銘文では、橡谷と坪井の組頭の名が読めない。□重郎・□太良とある。
 元治元年(一八六四)の野中組頭は要助であり、五人組の構成員は幸助・亀五郎・谷五郎・品五郎・宮右衛門・林左衛門・源左衛門であった(永田三島神社手洗石)。
 栗田村の組頭としては、寛政四年(一七九二)に伊左衛門・伝治がおり、五人組太郎左衛門・好蔵・治介とともに烏帽子杜大明神の拝殿再興に尽力している(「烏帽子杜三島神社誌」)。
 村役人としては庄屋・組頭のほかに百姓代と呼ばれるものが存在したはずであるが、山本家所蔵文書には登場しない。同じ大洲藩領の今坊久保家文書には「村目付」という表現の役職が「組頭村目付五人頭之外脇指差候義并袴着用向後堅指留候、尤身持候在町人ハ格別之事」と百姓代に該当する部分に記されている。
 このほか、村の仕事には、桝取・小走・俵番・御蔵番・村大番・池番・月番・郡夫番・井手番、その他臨時のものを含めると相当な種類を数えることができる。

 (三) 本百姓と水呑
 農民の構成は、郡役人(大庄屋)に任命されるものを除けば、一般的に庄屋・組頭・本百姓・水呑(小百姓)に分けることができよう。
 本百姓は土地を持ち、五人組の構成員であり、水呑百姓は土地を持っておらず五人組の構成員とはなれないものであるとされている。本百姓は検地帳に登録され、年貢・諸役を負担するものである。
 五人組には世話役としての五人頭が構成員の中から選出された。山本家所蔵文書の中に五人頭と告示されているものを列挙すると弘化三年(一八四六)、高岡組の惣右衛門・坪井組儀助、嘉永五年(一八五二)の瀬左衛門・重衛門・兼治郎らである。参考のために泉町の五人頭と思われるものを探すと「喜助」があった。彼は鍛冶藤兵衛・島屋清助・廉屋平助とともに文政五年(一八二二)の文書に登場する。山谷喜助とあるから、山谷組に所属していたのであろうか。

表3-2 大洲藩村触伝達経路・郷代官統治区域

表3-2 大洲藩村触伝達経路・郷代官統治区域