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中山町誌

五、 相互扶助

 村の生活は五人組制度のもとで納税・防犯の連帯責任が義務づけられていた。また農繁期には人手不足のため結と呼ばれる相互扶助の体制をとらなければ経営することは困難であった。そうした環境の中でもし飢饉になったらどのようにして切り抜けるのであろうか。
 律令時代には義倉という制度があって、余裕のあるものが飢饉に備えて蓄見をすることになっていた。この制度は律令政府崩壊とともにすたれたが、江戸時代の寛政の改革のとき、老中松平定信が義倉を復活すると共に、社倉を置いて富裕者が蓄えをするよう命じている。農村では、こうした幕府の政策が打ち出されるより前から、細民や障害者のために相互扶助が習慣となっていた。
 もちろん飢饉・凶作などの時には、藩庁が積極的に救済に乗り出している。これは税収入の基盤である郷村を維持することが大名にとって最も重要であったからである。
 特別な凶作がなくても、毎年末には庄屋が村内の飢人・難渋者の名前や家族人数を調査して藩庁に提出して年越し米の支給を受けている。こうしたとき、救済を受ける側では、救済を受けている期間中は雨具・草履の禁止、氏神氏寺以外への参拝禁止、金属の鍋・釜禁止など日常生活に制限が加えられることになっていた。
 慶応二年(一八六六)は凶作であったため、翌年の窮乏を防止するため、一一月に代官・庄屋がその対策として「夫食元立千人講」を企画した。概要は、銀札一貫目の加入で抽選により賞金を得るものである。世話役には南筋城戸藤左衛門・川筋上田久太郎・内山筋久保京助・小田筋高月三五右衛門があたった。募集目標は五、〇〇〇貫目で、集められた金は貸しつけに回され、借用したものは利息を五歩(二年目からは六歩五厘)払った。抽選場所は中村(慶応三年二月五日・同四年四月八日)、内ノ子(慶応三年二月八日・同四年四月一一日)、中山(慶応三年二月一一日・同四年四月一三日)、長浜(慶応三年二月一三日・同四年四月一五日)、五十崎(慶応三年二月一七日・同四年四月一七日)であった。それぞれの場所での当たり籤は一〇貫目(一)・三貫目(二)・一貫目(二〇)・一〇〇目(五○)・五〇目(二五〇)であった。一貫目を越える当選者はそれ以後の抽選の権利を放棄することになっていた。一貫目以下の当選者には最後の抽選年に一貫目を返却されることになっていたから出資金を失うことはなかった(平岡村庄屋文書)。