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中山町誌

六、 在郷町

 (一) 在郷町とは
 在郷町について、『国史大辞典』に「江戸時代、農村部に成立した商工業集落を総称していう。地域により呼称は異なるが、在町・郷町・町分・町村などと呼ばれた。豊臣政権は太閤検地や兵農・商農分離政策を実施し、町方と在方すなわち都市と農村を法的にも地域的にもはっきりと区分した。それを継承した江戸時代においても、本来、商人は農村部には存在せず、都市に集住することになっていた。しかし戦国時代以来の都市ではこのような政策により農村として把握されたにも拘らず、商工業集落としての実質を存続するものもあった。一方、領主側も歴史的な性格を尊重して、これを黙認したり、領内経済の拠点として、在方における町の存在を認めたりすることがあった。このような現状を反映して、在郷町という場合、法的に農村として把握された町場のみを在郷町と規定する論者と、法的に町として把握されたものでも、三都や城下町などの大都市と異なる在方の小都市・町場として在郷町に含める論者とがある。さらに、農民経済の拠点としての町場を在郷町とし、主として領主経済の拠点であった前期の町場を在町として区別する説もある(以下省略)」と記されている。現中山町のうち泉町が在郷町にあたる。

 (二) 中山村泉町
 中山村の泉町は、二〇軒・九二五坪五合二勺を御免地(非課税)として大洲藩主から認められていた。市日は九月二五日より末日までとなっている(天保九年巡見使答書を引用した「伊予広報」三号)。
 江戸時代中期以降、内子の六斎市のうち五日市は中山村において実施するようになったとのことである。また大興寺・浄光寺の過去帳によれば、江戸時代前期にはすでに中町、下町、新町(新地)の町名が記されている。
 中山村泉町の繁栄は大洲街道と無縁ではない。泉町を通過する大洲街道は出淵から仙寿橋を渡り、泉町を通って榎峠に到り、竹之内・日浦・犬寄の順であった。中山・出淵は伝馬の継場として一定の馬と馬士が用意されていた。
 愛媛県立図書館に泉町の図がある。図には「惣戸数百八拾七戸惣人員八百四拾人内商ヲナス者四拾弐戸農暇ニ商ヲナス者八六戸雑業二拾三戸工三拾六戸」と記されている。図の左端には庄屋屋敷とおぼしきものが描かれており(長岡氏の屋敷と推定)、街路に沿って家屋が並んでいる。出淵村とは中山川を挟んで隣り合っており、南部には仙寿橋(木製)が描かれ、北部には渡り石が描かれている。町の西部には大興寺・天満宮・浄光寺があり、町を南北に貫く街路の北部には地蔵堂が認められる。
 大洲藩では新谷町・中村町・長浜町・灘町・湊町・三島町は城下町に準じるものとし、内ノ子町・中山町・古田五十崎町・上灘町・加屋町・柚木町・麻生原町・八多喜町・新谷古町・町村町を在町として認めた。在町においては取扱商品に制限があり、絹類以上・蒔絵重箱類・硯蓋盃同台・銚子・挟箱・鏡立櫛台類・雪駄・差下駄并革緒・御免下駄并中折・雛同道具・飾槌兜破魔弓・緒真田類・差おろし笠・日傘・中次畳表は売買が禁止され、在庫は藩の許可を得てから販売することとなった(一八世紀末と想定される原町の門田文書)。これに関連するのが一〇代藩主泰済時代の「申渡覚」である。男子・妻子の衣服を木綿に限定したこと、夏の衣類の制限、櫛笄には木・竹・鯨・硝子を用いること、畳は七嶋を用いること、年礼・祭礼など接客には一汁一菜とすること、婚礼・葬礼は質素に、日傘の禁止、雛幟の制限などである。
 商業を許可された(商札を所持する)者は運上を納入する義務があった。享和二年(一八〇二)の大洲藩「商札条目」では三〇匁札・一五匁札・三匁札の等級があり取扱い商品に差があった。三〇匁札の者は米・大豆など穀物をはじめ禁止対象以外すべての商品の売買が許可された。一五匁札は領外への出津販売が許されないが、その制限を除けば日用品はすべて販売できる(穀物は五〇石まで)。三匁札は穀物を除いて、小売りならばほとんどの日用品を扱うことができた(茶・塩・酒など少量の販売に限定)。無札の商人もいたが、菓子・果物・野菜・とうしん・付木・草り・わらじ等、扱うことができる商品が少なかった(「大洲手鑑」)。

 (三) 本陣長岡氏
 「積塵邦語」によれば、本陣の長岡氏は伊予越智氏の出身で、高外木城落城後、山城国長岡に移住、その後近江へ移住して佐々木氏に仕えた。伊予中山村に住んだ初代九郎右衛門(次郎兵衛)は佐々木氏没落後伯耆国米子に移り、加藤氏が大洲領主になったので伊予に移住し、加藤家への仕官勧誘を断り、城下町で米屋と称して酒造業を営んでいた。加藤泰興時代に中山村庄屋となり、駄場に屋敷を構えたという(この説はやや疑問がある。というのは泰興が延宝二年=一六七四に隠居しているからである。実際は元禄一六年=一七〇二、庄屋就任が妥当ではなかろうか)。二代目以後は久左衛門・市右衛門・九郎左衛門・甚蔵・長岡九郎左衛門・長岡治郎右衛門(はじめ弥三郎)・貞蔵と続く。なお脇本陣は出淵村庄屋宅であった。「積塵邦語」に「献功家興々記」という項があり、二二名が記されている。中山町関係では中山村長岡定蔵とある。長岡家八代貞蔵のことであろうか。

 (四) 泉町商家の系譜
 中山の商家奥島氏は慶長年間に中山村に来住したという。初代惣左衛門源貞より三郎右衛門源貞と続き、この時屋号を島屋と称した。三代目島屋五左衛門源治(のち三郎右衛門)は享保一一年に没しているが、生存中に飢饉(旱魃)があり、大豆を献上したところ、藩から表彰されたという。当時の文書に発給者として徳永三左衛門・友松伝左衛門・中川文太の名が記されていた(積塵邦語)。これ以後は、四代目島屋五左衛門重昌、五代目島屋五左衛門重政・六代目島屋善十郎基昌、七代目島屋治三郎基茂と続く。
 中山村大和屋は奥村氏である。初代十兵衛は大和国郡山から慶長年間に移住してきた。火災により文書を失い伝承のみである。二代目より大和屋を称した。大和屋十兵衛である。三代目も十兵衛を称したが、四代目から庄兵衛を名乗る。四代目は初め宗介・五代目は延春と名乗った。六代目は宗介のち庄介、七代目は庄兵衛延寿、八代は庄兵衛延栄、九代は正治である。
 山本家所蔵文書には享和二年(一八〇二)から明治までの商人の名前が散見される。試みに屋号を拾ってみると、玉屋・五百木屋・高野屋・今田屋・佐伯屋・漆屋・住屋(炭屋)・出淵屋・小田屋・植田屋・成屋・曽波屋・大瀬屋・大平屋・大和屋・谷屋・鍛冶屋・島屋・美濃屋・米屋・油屋・廉屋・和泉屋・廣田屋などがある。このうち美濃屋には太右衛門、曽波屋には文右衛門がおり文政年間(一八一八~一八二九)頃、町老を勤めていた。また同じ頃、大瀬屋虎吉は町老助役、漆屋治吉郎・米屋六左衛門は組頭であった。
 美濃屋については、初代内田七兵衛は美濃国黒野の生まれであり、加藤家が大洲に入ると同時に伊予に来住した。病弱のため仕官をやめ、中山村に居住して財力を貯えた(積塵邦語)。同家はたびたび藩に大豆・銀を用立てている。内田家は二代目より代々太右衛門を襲名しており、五代目は町老となった。
 美濃屋内田氏は大洲藩の軍用金調達にも尽力した。文化一一年(一八一四)に、尾中六郎左衛門・西川源左衛門両名(役職不詳)が美濃屋治平衛に対し、功績をたたえて子孫代々裃着用を認めるとの覚書を渡している(内田家文書)。
 江戸時代の商家の評価額を知ることができる文書が山本家にある。文政二年(一八一九)、米屋弥治郎が家屋を手放すことになった。家屋は表間口四間五尺八寸・裏間口四間三尺七寸五歩、奥行一五間、面積二畝一二歩、高三斗一升である。これに一畝二三歩の畑高一斗七升六合をつけて、五貫百目である(銀一匁につき銭七〇文)。

 (五) 伊予当帰
 文書の上からは、中山村泉町の販売商品の中に発見できなかった「伊予当帰」が『愛媛面影』に紹介されている。「大平村より中山に越る所を犬寄坂と云、此辺近世当帰を多く殖て諸国に商ふ、頗る上品なり、俗に伊予当帰と名く」と記されている。当帰は、セリ科の多年草で、本州中北部の山地に生え、また薬用に栽培される。
 夏から秋にかけ、ごく小さな白い花を密生して大きな散形花序を作る。花序の枝は三〇~四〇本。漢方では根をいい、強壮・鎮静・婦人病に効くという(国語大辞典)。

 (六) 頼母子講
 泉町の商人達は相互扶助を目的として頼母子講を運営していたようである。山本家所蔵文書には文久二年(一八六二)と慶応二年(一八六六)のものがあり、前者では一貫目を受け取った宮内儀兵衛が保証人の植田屋半蔵・美濃屋太右衛門と連名で、今後一一〇匁宛、鬮の最終回まで懸け戻すことを誓約している。後者は一貫五百を受け取った出淵屋久吉が、今後三番鬮から一一番鬮まで一五〇目宛懸け戻すことを保証人小田屋六三郎と連名で誓約している。頼母子講の世話人には大瀬屋宗十郎・同金助・宮内儀平の名が見られる。
 このほか、浄光寺墓地や大興寺管轄の墓地に見られる町人と没年の一部を掲げる。島屋徳左衛門娘(元禄五年八月二五日)、島屋杢八(元禄一二年一二月一九日)、島屋半三郎(五輪塔・旱水二年八月八日)、島屋吉兵衛(寛政八年五月三日)、米屋六左衛門(寛政九年七月二七日)、島屋太兵衛(文政一一年二月一六日)、以上は浄光寺墓地。内田太右衛門(寛保元年八月二四日・大興寺管轄墓地)などである。