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中山町誌

一、 大洲道と金毘羅街道

 伊予には東海道をはじめとする五街道のように幕府が直轄する主要街道はない。しかし、城下と城下を結ぶ街道や金毘羅街道、そして遍路道や村と村を結ぶ往還と呼ばれる幹線道路があった。こうした幹線道路のうち藩の中心地から発する街道には一里塚が設けられ、旅人の標識となった。現中山町には、遍路道(主たる経路)は存在しないと思われる。というのは、四三番札所明石寺(宇和町)を出た遍路は、内子を経て四四番大宝寺(上浮穴郡久万町)に到るためである。しかし、佐礼谷藤ノ瀬には明和二年(一七六五)造立の地蔵(地蔵堂に安置)があり、このお堂を大師堂と呼んでいること、出淵村橡谷には元文二年(一七三九)造立の地蔵があり、「南無大師遍照金剛」と刻まれていることなどから、大師信仰の存在が認められる。上灘方面から大洲街道を経て明石寺・大宝寺に到る者には格好の道標となったであろう。
 松山から八幡浜に到る道を八幡浜道と呼ぶ(平凡社「愛媛県の地名」)。その途中にある大洲城下町までの部分がいわゆる大洲道である(愛媛新聞社『旧街道』では大洲街道と表記している)。松山を出ると、松前(松前町)から郡中を通り市場(いずれも伊予市)から山に入る。犬寄峠からが現中山町である。中山・佐礼谷を通って内子・新谷を経て大洲城下町に到る。八幡浜に到るためには、さらに西に進まねばならない。
 『角川日本地名大辞典』によれば、大洲街道は三つの幹線があったとする。すなわち、大洲街道・大洲往還・大洲道に分類し、大洲街道は宇和島藩領の卯之町(現宇和町)から鳥坂峠を越えて大洲藩領に入る道。大洲往還は八幡浜から大洲に入る道。大洲道は松山藩領から大洲に入る道と説明している。
 中山を通過する大洲道(または大洲街道・松山街道)を大洲側から眺めてみよう。現内子町立川を出ると旧街道はほぼ現在の国道に沿って進む。中山川に沿って進んできた道は現在の中山町に入る寸前から左に方向を転じて藤の郷川に沿って北西に進む。福住・梅原・永木・重藤・柚之木・福元を経て泉町に入る。これが江戸時代末のルートである。現在の国道五六号は豊岡と泉町の中間を中山川沿いに南北に抜ける。泉町から榎峠までは周辺に大きな集落もなく一本道である。途中の一ノ瀬には六郎屋敷・馬頭観音がある。榎峠には茶堂と金毘羅街道の道標がある。平野・泉・竹之内・影浦・日浦・山吹を経て犬寄峠にかかる。茶堂が竹之内・日浦にあり、道標が日浦・犬寄峠にある(共に大正時代のもの)。現在の国道五六号は榎峠の所で旧街道と別れ西進して上長沢から北へ進み、一旦双海町に入り、北北東に進んで再び中山町に入った後、双海町へ出て犬寄遂道に入る。遂道を出た国道は、再び中山町に入り北進して伊予市に入る。JR予讃線は中山町の中心部から伊予市大南近くまでトンネルである。江戸時代の旅人は、はるばる犬寄峠を越えて郡中に向かったのである。犬寄峠から少し下りて、小手谷(伊予市)へ向かう旧道の道端に地蔵が二体ある。
 大洲街道の経路は中山町教育委員会の調査をもとに記述したが、旧「中山町誌」には二つのルートがあったと記している。すなわち、一つは古来からの街道と思われる、内子方面から福住に入り、永木の茶堂(三島神社前)・重藤・柚之本・福元・高岡・一之瀬・長沢・犬寄と通り大平に向かうルート(通称オオテンマツ)であり、他は高岡・門前(横山)・栃谷・影之浦・栗田を通って松山に通ずる近道(通称コテンマツ)である。前者のルートが藩主に利用されていたようであり、今回教育委員会が現地調査を実施して江戸時代末のルートとして泉町経由のルートを確定したので、再調査の結果、それに従うことにした。
 中山には金毘羅街道の痕跡が認められる。江戸時代に建立されたことが明らかな道標としては、佐礼谷影浦橋たもとの「金毘羅大門ヨリ三十四里・佐礼谷村」「弘化二年巳七月吉日」と、佐礼谷榎峠の「右金毘羅大門ヨリ三十四里半」「天保五甲午三月吉日施主檜尾・榎峠・左なだ道」がある。このほか建立年代不詳であるが、佐礼谷の久保田氏宅に「石・金三十四里・猿田彦大明神・願主幸右衛門」と刻まれたものがある。
 他に、中山町に見られる道標としては、永木小学校正門右手の道路脇の壁面に小さな石柱がある。「右かみなだ二り十二丁・うしのみね一り三丁」「左いしだゝたみ」と記されている。地形図を見ても、梅原・永木を中心に道路網が展開している様子がよくわかる。永木三島神社の繁栄も大洲街道や脇往還などの交通網に支えられたといえよう。
 夜間に通行する人の安全のために常夜燈が設置されることもあった。永木三島神社石段下の灯籠は元禄一六年(一七〇三)三月の建立、泉町の天神さんにある常夜燈は天保七年(一八三六)八月の建立である。
 交通標識が整備されていない近世においては、金毘羅道標・常夜燈・石仏(地蔵)など信仰のための施設が旅人(金毘羅参詣・四国遍路など)を導いた。
 佐礼谷村の札場橋の建設に関する「勧化帳」が残っている。それによれば、安永七年(一七七八)三月、同村の平六・幸右衛門が願主となり、和田伝五兵衛から四〇目(七二銭換算)、惣組頭九人から四〇目、惣五人組一八人から三〇目、惣村中から八〇目を集めている。

図3-3 大洲街道

図3-3 大洲街道