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中山町誌

四、 中山町の編成推移

 前述内容と重複するところもあるが、中山町の明治時代における各村の推移の跡を記述する。
 明治二年(一八六九)六月一九日に藩主加藤泰秋の版籍奉還があり、明治四年七月一四日に大洲藩は大洲県となり、庄屋が廃止され里正がこれにあたった。里正には一様に庄屋職であった者が任命された。明治維新最後の庄屋職は次のとおりであった。

  中  山  村    長 岡 縁 三 郎
  出  淵  村    大 森     馨
  佐 礼 谷 村    鷹 尾 吉 循
  栗  田  村    奥 村 偉 三 郎

 明治四年一一月一五日に大洲県は宇和島県に合併され、明治五年六月二三日に宇和島県は神山県となった。
 各町村は区画が定められ、前述のとおり中山村は第九大区第三小区に、出淵村は第一〇大区第一小区に、佐礼谷村は第一〇大区第三小区に、栗田村は第一一大区第一小区に属することになり、各大区には後の郡長にも等しい区長が置かれ、各小区には戸長・副戸長が置かれた。
 明治六年二月二〇日に神山県と石鉄県が合併して愛媛県となり、県庁を松山に置いた。この後、懸案であった管内行政区画の改編が明治七年五月二〇日に発表された。明治五年の区画制定が旧藩以来の旧習を継いだばらばらの行政区であったので、伊予の国が一県になった機会に整理統合された。この改編により浮穴、伊豫郡の大部分と喜多郡の一部が第八大区となり、大区会所を郡中村に置いた。そして、小区は二四区に分けられた。
 中山は第八大区に属し、その内、栗田村は満穂村、王谷村、大平村、川登村、萬年村と共に第一八小区となり、小区役所を川登村に置いた。佐礼谷村は両沢村、鵜崎村、上唐川と共に第二〇小区となり小区役所を佐礼谷村に置いた。出淵村は第二一小区となり、中山村は第二二小区となり、それぞれに小区役所が置かれた。
 明治八年(一八七五)三月三〇日に「町村議事会心得・仮規則」が公布され、中山、出淵、佐礼谷各村共に議事役を選挙(選挙権は町村内に居住し、不動産を所有する年齢一八歳以上の男子の戸主で、毎年五月一日を公選の定日とし、被選挙権は選挙権資格者の外に戸主要件を緩和して子弟にも与え、また不動産を所有しない者でも一村一町の人民がこぞって議事役としての申し立てがある場合には県令の許可を得て直ちに議事役になれることができた)し、議事会を開いた。
 明治九年九月一日に香川県が愛媛県に合併され、前述の第八区が第一五区と改められ、中山は第一五区に属した。その後、明治二一年一二月三日に香川県は愛媛県から分離し再度独立した。
 明治一一年一二月一六日に大・小区が廃止され郡町村となり、浮穴郡は上・下浮穴郡に分かれ、出淵、佐礼谷、栗田の各村は下浮穴郡に属し郡役所は森松に置かれ、中山村は喜多郡に属し郡役所は大洲に置かれた。また、従来第二〇区であった佐礼谷、両沢、上唐川、鵜崎の各村はそれぞれ分離した。明治一二年一月一日栗田村・玉谷村・満穂村の三か村は合同で戸長役場を玉谷村に置いた。
 明治一四年(一八八一)九月に下浮穴郡役所を伊豫郡役所と共に郡中湊町に移し置くことになった。
 明治一八年一月一五日に戸長役場の改正が行われ、町村の区域はそのままにして五町村約五百戸毎に一つの役場を置くことになり、自治体の基礎が完成した。この区域が後に、町村制の施行にあたり行われた町村合併の大体の基準となった。そして、この時栗田村は出淵村と共に戸長役場を出淵村に置き、中山村は川中村と共に戸長役場を中山村に置いた。
 明治二一年(一八八八)四月一七日に市制・町村制の公布があり、明治二三年一月一日に施行された。
 この間明治二二年に中山村は喜多郡を離れて、浮穴郡に編入された。
 明治二三年の市制・町村制の施行により、中山、出淵、佐礼谷の各村共に一村一字で村制を実施し、栗田村は広田村に属するようになり大字名に改まった。佐礼谷村は字日浦丙一〇五八番地の一に役場を設けた。
 明治二九年(一八九六)四月一八日に「愛媛県下郡廃置法律」が公布され、明治三〇年四月一日より下浮穴郡は廃止され、いずれも伊予郡に属することになった。明治一一年に浮穴郡が上・下二郡となってから、その存続年月はわずか一七年四ヶ月に過ぎなかった。明治四〇年(一九〇七)一月一日に中山村と出淵村が合併して中山村となり、役場を大字中山丑三五一番地の第一に置いた。当時合併の理由として、明治三九年二月一三日の知事宛の嘆願書によると「泉川なる一小川を以て村境をなし、あたかも瓜の二つ割に等しく、役場の設置位置も二町以内のところにあり、中山、出淵の両尋常高等小学校がその距離僅かに三町内外のところにあり、これが境界の川辺に町が構成されており、物産、貨物等の集散離合の要地となっていて、合併すれば双方の便利が大にして、加うるに中山校舎は狭隘にして且つ大破損を来し危険なるゆえ合村成れば出淵校へ合併建築したいので急を要す」とし合併後の村名称を中山町としたいと申請している。ついで、明治三九年(一九〇六)九月二日には「古来より当地は他方面と商業上の取引をなすも総て中山村と称するもの最も稀にして概ね中山町と称し殊に出淵村民の如きも他の地方へ出たる時は総て中山町と称するにより、該名称の如きは其の地の符号なれば中山町と改称するを適当と認む」と、当時の村長は、郡長よりの照会に回答している。そして、中山町が町制を実施したのは大正一四年(一九二五)四月一日であった。
 明治四一年三月八日に中山村の役場を、大字中山丑三〇五番地・三〇六番地・三一〇番地・三一一番地にまたがる位置に移転設置した。
 明治四四年に町村制の全文改正があり、翌明治四五年七月三〇日に明治天皇が崩御され、大正時代を迎えることになった。

小区役所位置佐礼谷村

小区役所位置佐礼谷村


出渕村

出渕村


中山村

中山村


区務所位置川登村

区務所位置川登村


玉谷村・満穂村

玉谷村・満穂村


中山村・川中村

中山村・川中村


戸町役場位置出渕村

戸町役場位置出渕村


明治二二年 伊予郡

明治二二年 伊予郡


下浮穴郡

下浮穴郡


明治三〇年 伊予郡

明治三〇年 伊予郡